つもり たかえ

津森 貴恵

– 兵庫県姫路市生まれ。
– 専門学校で情報処理を学び、プログラマーとして東京でキャリアをスタート。
– 音楽やエンターテインメントの世界に憧れ、ウルフルズや清水ミチコのマネージャー業を経験。
– 帝国ホテルやニューオータニで仲居として勤務。
– PR会社で与論島や相撲部屋などの広報業務に携わる。
– デイサービスで老人福祉、重度訪問介護で障害者福祉に携わる。
– 震災を機に長野県へ移住。オーガニックショップ勤務を経て、現在は3つの仕事を掛け持ちしながら身近な人々と助け合いのコミュニティ「ツモリネコノテ」を運営。

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【1】

◼️…兵庫県姫路市のご出身ですが、東京へ出るのはどのようなきっかけでしたか?

中学の頃からTVや雑誌などメディアの裏側に興味がありました。
次第に「東京に行って世の中を動かしている人に会いたい。社会の仕組みを知りたい」という気持ちになりました。

高校を卒業後、地元神戸の専門学校で情報処理を学びました。
当時は「これからプログラマーの需要が高まる時代」と言われていて、
親を安心させるためにも、まずは安定した職を得ることを目標にしました。

実際、情報処理の専門学校に通えば就職に有利だろうという思いもありました。
当時はコンピューターがまだ珍しく自分にとっても未知の分野だったので、
授業で教わるプログラミング言語、2進数や16進数、マルチタスクの概念など、
どれも新鮮でワクワクしました。

就職活動では、東京に本社を持つ企業を中心に探しました。
その結果、一部上場企業の情報システム部門に内定をいただき、
21歳で東京へ行くことになりました

◼️…東京での最初の生活はどんなものでしたか?

本社が江東区にありました。社員寮は葛飾区でした。
東京と言っても都会のど真ん中ではなく、下町の雰囲気が強い場所でした。
最初は「こんなにのんびりしているのにここも東京?」と思いました。

私は地元関西にいた頃からサブカルチャーが好きだったので
仕事終わりに都内のライブハウスや小劇場に足を運ぶのが習慣になっていって
次第に「東京にいる自分」「東京で働く自分」の実感が湧いてきました。

大企業での仕事はとても充実していましたし、楽しくはあったものの、
「音楽業界で働きたい」と強く考えるようになりました。

プログラマーをやりながらライブハウスに通っていた頃

◼️…そのタイミングがやってきたのはいつですか?

4年経った頃です。

ある日、真心ブラザーズのライブを観に行ったとき、
対バン相手として ウルフルズが出演していました。
そこで初めて彼らのステージを観たのですが
「この人たちは絶対に売れる!」と直感しました。
エネルギーに満ちたパフォーマンス、大阪弁のトーク、
圧倒的な存在感に惹かれ、一瞬でファンになりました。…というかスタッフになりたくなりました(笑)

そして思い切ってウルフルズの事務所に直接電話をかけ「手伝わせてください」と直談判しました。
すると「お金は出せないけれど、手伝いに来る?」と言われ「行きます!」と即答しました。

こうして私は音楽業界の裏方として、新たな一歩を踏み出しました。

音楽プロダクション時代 事務所でミーティング中

◼️…ウルフルズのスタッフとしての仕事はどんなものでしたか?

最初は事務所内でファンクラブ会報発送のお手伝いをしました。

その後、正社員に採用されてからは会報やグッズを制作したり、
レコーディングやツアーに同行したり、
広報として取材や撮影に立ち会うなど現場へ出ることが増えていきました。

ウルフルズは私が関わり始めた頃、まさにブレイク寸前のタイミングでした。
音楽業界の先輩ミュージシャンたち、
例えば奥田民生さんなどからも「彼らはすごい」と注目され始めた頃でした。

実際に彼らがどんどん売れていく様子を間近で見られたのは、ものすごく貴重な経験でした。
ウルフルズがブレイクすると、スタッフの数も一気に増えました。

バンドとしてよりメジャーな方向に進む中で、
私自身は「この経験を活かしてもっと広い世界を見てみたい」と感じるようになったんです。
そんなときに出会ったのが 清水ミチコさんでした。

◼️…清水ミチコさんのスタッフになった経緯を教えてください。

ある雑誌のコラムで、清水ミチコさんのスタッフ募集を偶然見つけました

彼女の独特なセンスとユーモアが大好きだった私は、迷わず応募しました。
面接へは普段着で行った方がより自分をアピールできると思い、
古着のジーンズにカーディガンを羽織って行きました。
すると面接をしてくれた事務所社長もジーンズにカーディガン….趣味が似てました(笑) 

後で聞いた話では「雰囲気が事務所に合ってたから」とのことで大成功でした。

◼️…マネージャーとしての業務はどんなものでしたか?

最初は現場マネージャーとして、
テレビやラジオの収録、取材、ライブなどほとんどの現場に同行していました。

清水さんはもともと裏方(ラジオの構成作家)出身だったので、
スタッフに対してとても理解があり、働きやすい環境でした。
でも次第に現場での人間関係やマネージャーとしてのプレッシャーを感じるようになり、
1年ほどたったころ希望を出してデスク担当に変わりました。

サブカル好きの私にぴったりなこの事務所には約6年半関わることになりました。

清水さんの現場マネージャー時代 今はなき渋谷ジアンジアンにて

◼️…PRのお仕事への転身は、どんなきっかけがあったのでしょうか?

清水さんの事務所にはずっといるつもりでしたが
父が体調を崩したことをきっかけに一旦地元に戻ることにしたんです。

実家は小さな神社で父は神主でした。
その手伝いのためという一面もありました。
ただ、しばらくすると地元での暮らしがなんとなく物足りなくなってきました。
その後父の体調が回復したこともあって、再び東京に戻ることにしたのです。

それからはホテル内の懐石料理店で仲居をしながら、与論島(鹿児島県)にハマったんです。

何度か与論島に通っていたら、たまたま民宿で知り合った女性が、東京の企画会社の方でした。
その方は与論島のPRをやっている人で、
与論島のことを一緒に熱く語っているうちに、

「与論島の広報活動を手伝わない?」と誘っていただいて
今度は、広報の仕事をすることになりました。

毎日着物を着ていた仲居時代 京懐石料理のお店にて

◼️…与論島はどんなところですか?

与論島と関わるようになったきっかけは、やっぱり音楽との出会いでした。
コブラツイスターズというバンドのボーカルの方が与論島出身だったんです。
彼の歌詞に表れる「生まれた土地への想い」「方言」「自然と人々の営み」の世界観に強く興味を持ちました。
「この歌詞のルーツを知りたい」と思い、実際に与論島を訪れるようになりました。

初めて訪れた与論島では、島の自然や文化、独特の風習に深い感動を覚えました。
特に 「在宅での看取り」 という文化に強い衝撃を受けました。
与論島では、病院ではなく家で家族みんなに見守られながら最期を迎える人が多く、
それが島の自然な在り方として受け継がれていたんです。

また個人の家に大きな神棚があったり、
ご先祖様や目に見えないものたちを近くに感じる暮らしが私にはとても身近で印象的でした。

与論島にハマった理由のもう一つは「心を開かせてくれる空気感」です。
一人旅の女性が多く訪れる場所でもあって、その都度、同じような境遇の人たちと出会い、
お互いの人生について語り合う時間を過ごしました。

こうした旅の中で、与論島に魅了されて
結果的に 2−3年の間に 計6回ほど訪れました。

与論島への移住も一時は考えましたが、
当時は 地域おこし協力隊のような制度もなく、
安定した仕事が見つからなかったため断念しました。

でも、与論島で出会った友人の一人が、
島の男性と結婚し移住したことで、今でも与論島との縁が続いています。

彼女とは、今でも物々交換をする関係で、
与論島から魚介類を送ってもらって
私からはりんごを送るというやりとりが続いています。
また別の友人は、うちに遊びに来て長野が気に入り今は近くに住んで親しくしています。

与論島は「単なる旅行先」ではなく「自分を見つめ直す場所」だったし、「人生の大切な出会いをくれた場所」です。

今でも深い愛着を持ち続けている特別な土地です。