もりや くみこ

森谷 久美子

秋田市出身。
上智大学短期大学部英語科卒業。
カナダトロントへ留学し、トロント大学経済学部を卒業後、翻訳者として活動。
18年間のカナダ生活を経て2009年帰国。
2009~2015 翻訳会社でコーディネーターや品質管理責任者として勤務。
2015~現在 フリーランス翻訳者。
2020~2022 国際教養大学専門職大学院 修士課程で学ぶ。
経済学士(Bachelor of Arts)・修士(Master of Arts)。

【2】

◼️…最初はどんなお仕事をなさったのですか?

父の知り合いの方がカナダで木材の輸出の会社をやっていて
そこで、事務のお仕事をすることになったのですが、
その会社を辞めた後
たまたま日本のテレビ番組やアニメに
字幕をつけるお仕事の募集広告が出ていたんです。

当時カナダでは日本の番組を見られないので、
日本の番組も見られるし、面白そう!と思って
台本を翻訳する仕事をすることになりました。

やり始めたら、自分に向いてると感じました。
日本語から英語への翻訳でしたが、
こういう場面だったら、こういう気持ちで言ってるから、じゃあこの言葉を使おうって
言葉を変換していくのが、すごく好きな作業だと思いました。

それが始まりです。

ナイアガラの滝(初めて行った時の写真、その後友人と何度も行きました)

◼️…木材のお仕事も同時にやっていたのでしょうか?

個人事業主として翻訳と木材(ログハウス)の輸出を10年ぐらい、掛け持ちでやっていました

木材の輸出というのは、ログハウスのバイヤーのようなお仕事です。
お客様の希望を聞き
車で1時間ぐらい離れたログハウスの会社やホームセンターみたいなところに行って、
発注に従って、木材を買い付け、
大きいクレートに本数を揃えて乗せてもらい、
さらにコンテナに詰めるというような作業*をします。

*実際はホームセンターの方がフォークリフトでの作業し、ご自身はそれに立ち会っていた

翻訳は家で、ログハウスは外に出るので、良いバランスでできていたと思います。

◼️…「自分で稼ぎたい」が実現していったのですね。 

カナダに来て、自分で仕事をするようになった時に、
フリーランスという働き方は自分に合っていると思いました。

例えば天気がいい日は朝、洗濯したいですよね。
田舎に車で行って、買い付けしたり
納期に合わせて翻訳の仕事をしたり、
自分で時間管理ができるのが良いんです。

日本で私が考えていた仕事の形は、スーツを着て決まった時間に会社行くことだったんですね。
そうではなくて、好きな時間に仕事をして納期までに出す。
自分で自分の生活を作れる。
自分はこれが好きなんだと、発見した感じでした。

トロント郊外(馬もいます)

◼️…日本への完全帰国のきっかけは何でしょうか? 

2009年、リーマンショックがきっかけです。

北鎌倉の当時の自宅で(カナダから一緒に日本に来た今は亡き2匹の猫たち)

リーマンショックで仕事はないと言われていましたが、
たまたま東京の翻訳会社でコーディネーターのお仕事をすることになりました。

コーディネーターは、翻訳を手配する役割の人です。
ある案件が来た時に、これに合う翻訳者は誰かを選んでお仕事を依頼する仕事でした。

この時、いろんな人の翻訳を読めたのが、自分の力になりました。
翻訳者は普段単独で仕事をする人が多いので、他の人の仕事を読む(原文と訳文を比べる)ことがありません。

なかなか他の方と比べられないので、しょうがないのですけれど、コーディネーターはそれができた。
こういう風に訳せばいいんだ!と思うことが何度もありました。

その時の経験は、今(の自分の翻訳にも)に生きています。

◼️…和訳と英訳はどちらが多いですか? 

私は、日本に帰ってから9割、英訳です。
最近は和訳も増えてきましたが、ほぼ英訳です。

昔は、逐語訳(ちくごやく)といって、一語ずつ訳していましたが、
自然な英語の文章を書くなら、考え方を全部変えないとダメですね。

大変なことに聞こえるかもしれませんが、
主語をどうするか?
どちらの視点から見るか?
いろいろ考えると面白いです。

翻訳は二度と同じものがないから飽きないです。
同じ文章を絶対に訳さないので、いつも新鮮です。
だからここまでやってこれたという気がします。

◼️…良い翻訳とは、どういうものでしょうか。 

正確で自然な文章を書くということでしょうか。

今でも完璧だとは言いませんけれど、
長年やってる間に自然な英語を書けるようになったと思います。

英語は、話すことは割とすぐにできるようになりますが、
正確で自然な文章を書けるようになるには、トレーニングを積むしかないですね。

◼️…どんな内容が多いですか? 

一般的に翻訳やってますと言うと、
どんな本の訳をされたんですか?と聞かれますが出版翻訳ではないんですね。

初めは、テレビ番組の字幕や台本の翻訳をして、
その後、企業のマニュアルや、契約書、プレゼンテーション資料、
お客様の声、調査、分析資料などの翻訳をしてきました。

自動車業界であれば、世界に製品を出しているので、世界の安全規則を訳すことになります。

世界の標準規格というものがあるのですが、
それが地域に落とし込んで行った時には、 その地域の事情が入ってくるので、
例えばインドでの規則、EUでの規則…というように、まったく違うものになっていくんです。

これも英訳のお仕事でした。
これがものすごく面白かったんです。

◼️…面白かった..んですね?

面白くないことは、やらないんです(笑)

◼️…大変だったことはありますか?

私が翻訳を始めたのが1996年ぐらいからなので
幸いインターネットができてからなんです。
その前は、ファックスで手書きでやりとりしていたと聞いて
(修正など大変だと思って)絶対嫌だ!と思いました。

それでも、英和辞典と和英辞典、英英辞典など、
すべてものすごい厚さの三冊の辞書を引くしかなかった時代。
辞書を引いてもわからないことがたくさんあったからすっごく大変でした。

今は、ネット検索をすればリサーチも楽ですよね。
テクノロジーのおかげで助かっています。

テクノロジーの恩恵について言えば、
流行の言葉は変わっていくので、テレビ番組を(時差なく)見られるようになったのも大きいです。

当時カナダでは、普通のレンタルビデオ屋さんに行っても日本のものは置いていなかったので、
日本食材を売っているお店に行って、
そのお店が独自で貸し出しているテレビ番組の録画テープ(有料)を借りて観ていました。
おそらく半年ぐらい遅れて(日本のテレビ番組を)見ていました。

日本のテレビ番組を見ることは、
先端の言葉をキャッチしていくのにすごく役立つんです。
例えば、「やばい」って今、いい意味でも使われるでしょう?

今は、映像配信サービスがあるから良いですよね。
良い時代になったと感じます。

◼️…テクノロジーと言うとAI(人工知能)についてはどう感じていますか?

AIにはだいぶ脅かされている職業の一つだと思います。

AIの翻訳は結局、逐語翻訳が多いので、速さで勝てない訳ですから、
逐語翻訳しかできない人は淘汰されていくと思います。

簡単な一文を翻訳するならかなり精度が高くなってきていますが、
例えば英語からスペイン語に訳す。
英語からポルトガル語とかフランス語へに訳す。
それと日本語訳とは全く違います。

英語と日本語は、かなり距離が離れている言語なので、
人による翻訳は、AIが出てきても、なくなってはいかない気がします。

今、ポストエディティングという新しい仕事ができています。
AIはスピードだけは速いので一瞬で翻訳します。
それを直すという新しい仕事があるんです。

ただ、他人の翻訳を直すは、とても大変な作業です。
その人の考え方にならないと直せないので、一から翻訳するのと同じくらい時間かかるんですよね。

なので、新しい仕事の形ができた割には
日本語と英語の間の翻訳の品質とスピードの向上にはなかなか時間がかかっていると言えます。

意味さえわかれば良い時、すぐ翻訳が必要な時は、 AIを大いに活用して良いと思います。

ただ私は、自然な日本語や英語の文章を提供したいんです。
それは私にしか書けない文章なのだから、そこで差別化ができると考えています。

◼️…”伝え方”が最も違う点でしょうか?

伝え方はすごく大事だと思います。

言葉に対するセンスもあるんですよね。
私は他人の文章を読むこと。
良いと思う人の文章に触れることが とても良いトレーニングになると思います。

国際教養大学時代の英文教科書を読むことは、役に立ちました。

簡潔でわかりやすい言葉で書いていて、
そうか、こういう風に書けばいいんだな
こんな風に書きたいなと思える文章にたくさん出会いました。

自分の「書く技術」は相当上がりました。

◼️…森谷さんにとってのCallingは翻訳だったということでしょうね。

そうかもしれません。

ずっとやってきて、今でも飽きないし、翻訳はずっと続けたい。
死ぬまでやりたいと思っています。

ことばに携わる仕事は、年齢を重ねれば重ねるほど、良くなっていくんです。
品質は上がっていくんですよね。

本当にこの仕事をやっていて良かったなと思います。

この春、父が亡くなりました。

生前父は 仕事の話を家ですることはなかったのですけれど、
同僚だった先生が弔辞を読んでくださって、
弟とそれを聞いていて、初めて知る父の姿がたくさんありました。

父は郷土史を研究していて、本も出版していたので、
フィールドワークがすごく好きだったみたいなんですね。
私もすごく興味のあることなので、
教えてくれたらよかったのにと、とても残念に思いました。

父のやってきた仕事を知るにつけ
私もいろんな世界を感じたいと思う気持ちがどんどん強くなってきました。

秋田に帰ってきたら、ちょうどコロナ禍で、
国際教養大学ではほとんどがオンライン授業でした。

高校を卒業した後、県外、そして国外に行っていたので、
私は、大人として秋田での生活を経験していません。
秋田の生活をより充実したものにするために、
今、市民団体のボランティア活動に参加してみたりしています。

これからも翻訳の仕事を軸に、新しいことにもチャレンジしたいと思っています。

(了)
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