みなみ しほ

南 志保

熊本・福岡県出身。
武蔵野美術大学建築学科を卒業後、コンサートのセットデザイナーとして キャリアをスタートする。
舞台のカラクリ、仮設だからこそのエネルギーに惹かれるうちに、日常のそこかしこにもそのカラクリを仕掛けたいと考えるようになる。
立体集団ガリネル 主宰。
舞台美術、セットデザイン、ディスプレイデザイン、 ブランディング、パッケージデザイン、ビデオアート、他手がける作品は多岐にわたる。

1995年 武蔵野美術大学造形学部建築学科 卒業
2008年 文化庁メディア芸術祭 審査委員会推薦作品 受賞
2015年 株式会社ガリネル設立

舞台セットデザインと空間のアートディレクションを手がけたプロジェクトに以下がある(敬称略)

私立恵比寿中学/MACO/玉置浩二/安全地帯/ももいろクローバーZ/西野カナ/MTV公開収録/中森明菜/山本寛斎/ジュンココシノ/ピンク・レディ/谷村新司/松田聖子/吉田兄弟/bird/小野リサ/古舘伊知郎/渡辺 美里/舘形比呂一/槇原敬之
牧かほり/高木由利子/小林七生
小松マテーレ株式会社ブランディング・ディレクション / 阪急うめだ本店ウインドウディスプレイ/伊勢丹新宿店本館ウインドウディ スプレイ/欧州レストランVIVI/LUMINE新宿店ウインドウディスプレイ/ GOLOTEウインドウディスプレイ/ストランザ展示会ブース/Luz 自由が丘 クリスマスディスプレイ/フィリップモリスジャパン/Ambiance/mercibeaucoup 他多数

  立体集団ガリネル

  @shihominami444
@shiho.minami_gullinel

【1】

◼️…株式会社ガリネルの「ガリネル」とはどういう意味ですか? 

ガリバートンネルの略です。

ドラえもんの道具にガリバートンネルというのがあって、
そのトンネルは、片方が大きい口で、片方が小さい。
小さい方から通ると大きくなって、大きい方から通ると小さくなるんです。 

(ガリネルという)トンネルを通ると、面白い展開になりますよという意味を込めています。
短く親しみやすい名前にしようと考えた時、
ガリトンじゃないな、ガリネルだったらいいかも?と思いました。 

例えば、舞台美術で言うと、
舞台を正面から見ているお客様には 見えていない仕掛けがたくさんあるんですね。

側面にあるもの、天井にあるもの、裏にあるもの…。
実はいろんな仕掛けがあって、時間や空間を運んでいくものなんですね。

ガリネルというトンネルを通すと、 いろんな仕掛けが楽しく展開できて、
向こう側にまた何かがあるかもしれないっていう高揚感もある。

そうやって、世の中を楽しくできるんじゃないかなと思っています。 

◼️…舞台美術とはどんな出会いがあったのでしょうか? 

夢の始まりは中学校2年生の時でした。

中森明菜さんが大好きで、当初は彼女の付き人になりたいと思っていました。
彼女の右腕的な存在になりたかったんです。
しかし、同等の立場で出会いたかった。

そのためには、どんな仕事をすればいいか?と考えました。

衣装で関われるか?というと、服のことはあまり得意ではない。平面も然り。
でも立体的なことだったらどうか? 空間のデザインだったら好きだな、楽しそうだなと思って、
彼女の舞台のセットを作れるかもしれない!と思いました。

それが始まりです。

◼️…空間が好きだと思えたきっかけはどんなことでしたか? 

中学生の頃、母の本棚で『椅子に人が座っている図』を見つけたんです。
母は美術大学で舞台の勉強をした人でした。 

これは何?と母に尋ねたら、
椅子の高さや角度など、すべて人間の身体に合わせてデザインされているのだと教えてくれました。

面白いお仕事だと思いました。 

それまでは、お医者さんになりたいと思ったり、
運動が好きだったので、スポーツ選手になりたいと思うこともありました。
プロゴルファーになるのはどうかと言われたこともあります。 

何か目標が欲しい、邁進できるものは何かを探していた時に
母の本棚で出会ったのがデザインだったんです。 

◼️…そして美術大学を目指すのですね? 

中森明菜の四文字を追いかけて過ごした高校時代でした。 

夢に近づくには何を選べばいいのだろう?
彼女の事務所に近い美術大学はどこだろう?  など
1分1秒、そのことだけ考えて生きていたんですね。
何かを選択する時に、どっちが中森明菜に近いか?を選ぶんです。
彼女に結びつくことを選ぶだけですから、迷いがないんです。

すべて中森明菜で構成されていた高校時代でした。

その夢は親にも友だちにも言えませんでしたが、
自分の中では、絶対やるぞ!と決めていました。 

◼️…建築学科なのは何故でしょうか? 

舞台美術をやるのであれば、
もっと大きい空間を勉強した方がいいのではないか?と母にアドバイスをもらいました。

例えば建築の勉強をした人がアクセサリーを作るとすごく面白いことになるかもしれない。
大きく物事を捉えて、小さいものに取り組んだら面白いと考えて建築学科に進みました。

実はこの時、一年の浪人の末、晴れて大学に合格して東京に行くことになったのですけれど、
大学4年間のうちに、彼女の生活に変化があれば私の夢は叶わないので、
早く何とか接点を作っておきたいと思って、
一年休学して付き人になりたいと初めて親にその夢を告白したんです。

その後ちゃんと4年通うからやらせてほしいと話したら、
何を考えているんだ!と 世の中にあるすべての雷が落ちてきました。

そりゃそうだなと思って、
お願いだから(中森明菜に)4年間は待っていてほしいと思いながら勉強をして、大学を卒業しました。

◼️…そしてその日がやってくるわけですね。 

大学を卒業して、舞台美術の製作会社に就職したのですが、
程なくして父が体調を崩したので、福岡に帰ることにしました。

退社して福岡にいたのですが、
(東京の)その製作会社の絵を描く仕事や、デザインの仕事を時々お手伝いしていました。

ある時、その会社に中森明菜の仕事が入ったと先輩から連絡がきました
その方がセットデザインを担当することになったのですけれど、
私のデザインもプランの一つとして持って行ってくれることになりました。
嬉しくて嬉しくて、一生懸命考えました。

採用には至りませんでしたが、一歩近づけたと思いました。

その半年後、またまた近づくんですね。
今度は、ステージの基礎を作るスタッフとして担当することになりました。
本番の日に、真正面から舞台を見ていて、
スタッフとしてこの会場にいるんだなと思って感激しました。

ただ、私の夢は、 私のデザインしたステージで彼女が歌っている姿を
正面からではなく、舞台袖から見ることだったんですね。

それが叶うのは、その数ヶ月後のことです。
その時私は28歳でした。

14歳から追いかけてきた夢だったので、 (夢が叶うまで)人生の半分かかったことになります。