長野県中川村 結婚相談所所長
東京都世田谷区出身。
大学を卒業後、芸能界、バー経営を経て婚活業界へ。
2020年8月長野県中川村に移住。
現在は、中川村結婚相談所の所長としての婚活のサポートに加えて
移住定住促進や観光案内所で集落支援の仕事にも携わっている。
【1】
●‥‥エンターテイメントの世界に長くいらっしゃいましたが、そもそもきっかけは何でしたか?
大学3年の時に、ミュージカルの舞台のお手伝いしたんです。
舞台の内容も知らずに本番を迎えて
当時の渋谷公会堂で舞台が終わって客電がパッと点いた瞬間、
2000人ぐらいのお客さんの
歓喜の表情が私の目に飛び込んできました。
舞台の華やかさよりも
お客さんの「きゃー楽しかった」っていう
あの表情を一斉に見た瞬間に
全身の鳥肌が立って
これすごいなーって思ったんです。
1日の終わりに
こんな楽しい出来事があって
人の心をそんな風に感動させられる仕事って
なんて素晴らしいんだろうと思いました。
それが仕事を選んでいく基準になりました。
●‥‥大学を卒業後の 芸能プロダクション就職につながるんですね?
エンターテイメントの感動が
私にそれだけのインスパイアを与えてくれたので
その世界に入って
舞台の裏方になろうって思って
芸能プロダクションに入ったんです。
社会に出て5年間働いた芸能プロダクションでは雑用全般を担当しました。
小さな仕事です。
今風に言えば『名もない仕事』です(笑)
事務所の掃除、お茶くみ、電話番、郵便物の整理、
取材掲載記事のスクラップ、祝電や祝い花の発注……。
当時は携帯電話がなかったので、
大至急の電話の取り次ぎには
空港のロビーや新幹線の中にまで電話をかけたり……。
ここでの雑用はマスターしたので
そろそろもっと私でなければできない仕事がしたいと思っていたとき、
母が亡くなりました。
●‥‥それは、大きな出来事ですよね。
それまでよりも深く自分の人生を考えるようになりました。
「じゃあ何をして生きて行こうか?」と思った時に
先輩が結婚式の司会業をやっていて
その先輩の仕事を見る機会があって
「私もやってみよう」と思ってレッスンに通うようになりました。
結局、私はプロの司会者にはならなかったけれど、
そこで教えてもらったことが生きる場面が
今でもたくさんあるんです。
●‥‥時をほぼ同じくして「ワハハ本舗」に入るんですよね。
そこでは『私でなければできない仕事』に出会えましたか?
私が最初に任せてもらった仕事は、舞台の制作でした。
制作っていうとすごくかっこよくきこえますけど、「ザ・裏方」です(笑)
劇場をおさえて、チケット代をいくらにするかを決めて、
舞台監督さん、照明さん、音響さん、衣裳さんどうするか とか、
いつから稽古は始めるかとか、
チラシ作って、情報出して、チケット販売や
安くておいしい弁当発注する、
打ち上げ会場の手配、お金の精算・・・
きりがないほどの雑用力が要求される
裏方の最も過酷な仕事じゃないかと思いますね。
●‥‥ほんとに、全部ですね?
役者と演出家は内を作る。
制作は外を固める、骨組みを作る……って事でしょうね。
究極の”作り出す仕事”っていう感じでした。
舞台は制作の人の手腕がかなり重要ですが、
私は本当になんにもできなくて、迷惑かけるばかりでした。
●‥‥その後、女優の柴田理恵さんのマネージャーを務めることになるんですね?
柴田さんが30代前半で、
まだ売れてない頃で、時間だけはたくさんあって、
仕事終わりによく飲みに連れていってもらいました。
撮影所の近くの町の中華屋で
昼間から餃子をつまみに飲んだり。
あるとき、六本木の居酒屋で飲んでいたら、
隣の席のサラリーマンに柴田さんが、
「あ!あなた、どこかで見たことあるなー!あぁ!わかった!麻布警察の婦警さんだ!」 と言われて、
2人でズコーッとなったり、
本当に たくさん ごちそうしてもらいました。
お酒の飲み方教えてくれたのは柴田さんだと思います。
●‥‥芸能マネージャーってどんな仕事ですか?
アーティストに対してどんな作品に、
どんな人とどんな風に出会わせていったらいいんだろうって考える、
それが、マネージャーの仕事だと思っています。
「私が」というよりも、
この”役者自身がどうなりたいか”を形にしていくことを考えていたと思います。
そのために営業もしましたし、
良い作品に出会えた時や
憧れの先輩俳優さんと共演できた時は、私も本当に嬉しかったです。
柴田さんは、
こういう女優さんを尊敬しているとか
あの俳優のこんなところが素晴らしいとか
この監督の作品が素晴らしかったとか
あの小説がすごく面白いとか
たくさん語ってくれる人でした。
私も同じ夢をもって歩んでました。
●‥‥喜びが共有できるのはいい仕事だなって思います。
10年務めました。
私が担当してる人が いい仕事ができた時は
本当にそのことが自分のことのように嬉しいし、
今でも柴田さんの舞台や テレビで輝いている姿を見ると
なぜかちょっと泣けてきます。
授業参観のお母さんみたいな気分です。
●‥‥ワハハ本舗を退社してバーを始めたとのこと、マネージャーからの大転身ですね。
皆に”何で飲み屋のママなの?”ってたくさん聞かれました。
当時、マネージャーの私が褒められるポイントは
挨拶と笑顔とおしゃべりと宴会芸。
この四つしか褒められたことがなかったんですよね(笑)
これが全部活かせる仕事って何だろうかと思ったら
もう飲み屋のママしかないって思ったんです。
実は「40歳になったら飲み屋のママになる」って
30歳ぐらいの時から言ってたんです。
●‥‥ワハハ本舗にいる時代、ずっと言ってたんですね?
マネージャーという仕事の素晴らしさもあるけれど、
一方で、自分が独り立ちしていくことを考える必要があると感じていたんでしょうね。
マネージャーの仕事は体力勝負だし
年取ってから出来る仕事じゃない。
ばあさんになってもできる仕事はなんだろう?と考えたら、
飲み屋のママだって思ったんです。
「皆さん!私は40になったらワハハをやめて飲み屋のママになりますから」って宣言してたんですが、
「いやいやいや。そんな簡単になれるもんじゃないよ」って言われてました。
もちろん簡単な事じゃないって私も思ってましたが、
いつもの冗談だと皆が思ってたんだよね。きっと。
だけど、なったんですよね〜!
すごくない?
●‥‥何があったんですか?
あれは運命だと思う….
私の挨拶と笑顔を気に入ってくれたのか わかりませんが、
1年に一度くらいお仕事をいただく、
ある映画の制作会社の社長さんが
「いつかワハハをクビになったらうちの会社に来いよ」って
毎回言ってくれていたのですが、
転職を考えた時に そのこと不意に思い出して会いに行ったんです。
なぜ転職したいのか、一通り聞いてもらって、
しかもプライベートなこともそれまで話したこともない方でしたので、
いろんな話を聞いてもらっている内に
なんか心底すっきりしてしまいまして、
本当は、映画の制作会社だから
「キャスティングやらせてください」って言おうと用意して出かけて行ったのに
「ところであなたは何が一番やりたいの?」って聞かれたら
ついうっかり、
「飲み屋のママになりたいんです」って言ってしまったんです。
用意していた「キャスティングやりたい」って言葉を忘れて…。
人間、本当の自分をわかってくれる人に嘘はつけないものですね。
「飲み屋のママなりたいんですよ」って言ったら、
その社長に
「おぉそうなのか。
実は、ちょうど飲食店はやってみようと思ってたから企画書書いてきて」と言われたの!
びっくりしたのは私の方で、
そこから急いで企画書書いて、物件探して、契約して、
開店までわずか3ヶ月のできごと。
当時の私は39歳。
マニュフェストより一年早く 飲み屋のママになりました。
●‥‥まさにミラクルですね!
ミラクル!
企画書持ってこい、採用すれば出資すると言われた時、
映画の世界の人ってすごいなと思いました。
ラッキーだったのは、
未経験で飲食店を始める時に親会社があったこと。
それはとても心強かったです。
その後、3年経って、
映画の世界も水商売もなにがあるかわからない、
社長からこれからのことを考えて、
自分の力でやっていけるようなら 独立するように勧められました。
その後移転もしましたが、通算9年お店をやりました。