はった まい & はった あすか

八田 舞&八田 飛鳥

  • 八田 舞

– 千葉県出身。一卵性双生児で飛鳥さんの姉
– 高校卒業後、専門学校を経てカリフォルニア州立大学に留学(国際関係学専攻)
– 卒業後に日本へ帰国し、さらにインドへ渡る
– 現地の日系企業で勤務した後、「HASORA Organic India(ハソラオーガニックINDIA)」を創業
– 「安全でおいしい食を通じて生産者と消費者の双方をつなぎ、人々の可能性を最大化させたい」という思いを原動力に、農家との連携・店舗運営・加工品開発など多岐にわたる事業を展開。今後はインドから日本、そして世界へ「心も体を豊かにする食」を発信したいと考えている
– 現在はインド・グルガオンに拠点を置き、「日本の健康的な食文化」を取り入れた商品開発にも注力している

  • 八田 飛鳥

– 千葉県出身。一卵性双生児で舞さんの妹
– 姉と同じく高校卒業後、専門学校で留学準備をし、カリフォルニア州立大学へ
– 卒業後に一度日本で就職するが、姉が先にインドへ渡ったことをきっかけに自身もインドに興味を抱く
– インドの成長とビジネスチャンス、さらには「誰かの人生を良くすることができるかもしれない」という想いに突き動かされ、思い切ってインドへ移住
– 現地の日系企業で勤務しながら姉と合流し、創業へ参画
– 妹ならではの感性と行動力で、「HASORA Organic India」の事業を牽引している

 hasora.in

@HASORAOrganicIndiaPvtLtd

   hasora.in

hasoraindia

 

【1】

※舞さんにお話を訊きました※

◼️…「 HASORA Organic India(ハソラオーガニックインディア)」はどんな会社ですか?

HASORAは「安全で美味しい食を通じて生産者と消費者を繋ぎ、双方の問題を解決したい」と創業した会社です。

創業当初は、安心できる食材が手に入りにくい環境に不便さを感じていた方が多かったため、
有機野菜の宅配事業から始めました。

現在では肉類や魚介類、添加物を使用しない加工食品、米など
様々な食品を取り扱っています。
さらに、手軽に健康的な食を提供できるよう、
お弁当やサラダ、お惣菜などの日本食、カット野菜などの販売もしています。

またHASORAという社名は、日本語の葉っぱと青空に由来しています。
葉のように常に成長し、青空のように誰からも必要とされ、
たくさんの人に幸せと、笑顔を与えられる
唯一無二の存在になれるようにという意味が込められています。

◼️…双子の姉妹で経営なさっていますが、小さい頃から思考は似ていましたか?

双子の妹・飛鳥とずっと同じ道を歩んできました。

高校も一緒、留学準備の専門学校も一緒。
アメリカの大学はキャンパスこそ違うんですけど、
同じカリフォルニア州内だったので車で4時間くらいの距離ですね。

そして今も一緒にいます(笑)

友人の結婚式

◼️… 海外への興味はいつ頃から培われたのでしょうか?

英語や海外への興味は、小学生の頃から英会話を習っていたのが大きいです。
もっと英語をしゃべれるようになりたいという思いがすごく強かったです。
いろんな国の人に出会いたいと思って、留学することに憧れもありました。

また、両親(特に父)「日本だけではなく外の世界も見るべきだ」と話していて
姉妹ともに留学することに対して、積極的に応援してくれました。

大学では国際関係学を専攻しました。

◼️… 留学生活はいかがでしたか?

最初の1年は大変でした。

教授が何を言ってるか全く理解できないまま授業が終わったことがありましたし、ホームシックにもなりました。
でも1年ぐらいすると慣れてきて、
卒業する頃にはアメリカでの経験が財産になりました。

最初はホームステイしました。
私以外にも日本人がいて、ホストとして受け入れることに慣れていらしたのでよかったです。

半年ぐらい経った後、アパートでルームメイトと生活しました。

アメリカ留学時代(舞)

大学には、メキシコ系やアジア系のアメリカ人、ヨーロッパからの留学生など、
本当に多様な人たちと知り合えて、
世界には様々な価値観があることを知って衝撃を受けました。

また世界には経済格差があったり
生まれた国や生まれた地域によって
チャンスが与えられない人達がいることを知りました。

そういった不平等や不公平な世界をより良く変えたいとの思いが芽生えました。

日本にいたら、日本の価値観でしか生活できなかったと思いますが、
自分の価値観以外にも多くの価値観が世界にはあることを目の当たりにし、
広い視野を持つことができました。

自分の中の常識が崩れ、留学はその後の人生のベースが作れた経験でした。

アメリカに行っていなかったら、
その先インドに行く決断もできなかったと思います。

◼️…卒業後、なぜアメリカではなくインドを選ぶことになったのでしょうか?

大学時代に「インドは急激に経済発展している一方で、格差も非常に大きい国だ」
よく耳にしていたこともあり、気になっていました。

実際に行って確かめてみよう、
確かめて自分が何をすべきかを探してみようという思いで行きました。

旅行であれば、1−2週間ですが、
実際に確かめるために、住む必要があると思いました。
住むためには働かなければならないので、
最初は、インドで働ける会社を見つけて就職しました。

インドに来たばかりの頃(舞)

◼️…どんな会社だったのですか?

手織りの絨毯を作って、日本を始めアメリカなど世界に輸出してるインドの会社でした。


比較的貧しいインドの農村部の人たちに、
絨毯の織り方を教えて収入源を確保し、
その絨毯を世界各国に輸出している会社です。

その取り組みは、私がやりたいことにつながっていると感じました。

◼️… インドでの生活はどうでしたか?

最初に生活したのは、ジャイプールで
デリーから西に車で5時間くらい離れたところでした。
歴史的な建築物が多く、観光地としても有名な場所です。

インドの中でも比較的保守的な文化の地域で、
日本との文化の違いに非常に戸惑いました。
食文化も日本とは全く異なり、
菜食主義者が多かったり、辛い食べ物が多かったりして、
慣れるのに時間がかかりました。

辛いものが苦手なので「辛くしないで」って言ってたのですが、
必ず辛い料理が出てきました。
インド料理は美味しいので大好きですが、辛いのは相変わらず苦手です。

インドの南の方は一年中暑いのですが、
私たちがいる北インドは、冬もあるので温度差のある地域です。
夏は47度になります。
夏場は乾季なので、湿度は低いのですが、
さすがに45度を超えると熱中症で倒れてしまうこともありました…。

現在はグルガオンにいます。

◼️…やがて、妹の飛鳥さんも合流するのはどういう経緯だったのでしょうか?

最初は「こんな大変なところ(飛鳥は)来ないほうがいいよ」と言ったんです。

お腹を壊したり、酷暑で熱中症になり痙攣を起こしたり、さらには、極貧生活で(笑)
最初は本当に苦労だらけのインド生活でした。

インドに渡って1年ほど経った頃、妹が仕事を休んでインドの様子を見にきてくれました。

私が働いていたジャイプールにきて、
会社を訪問したり、観光をしたり、約1週間滞在しました。

「農村の課題を解決し、環境や外的な要因に関係なく、
誰もが自らの可能性を最大化できる社会を作りたい。
インドで世界をより良い場所に変えるために、
自分ができることに挑戦したい!」
と言って、
そこから妹も1年半後にインドに来る覚悟を決めました。

この10年でインドはものすごく変わったのですが、
15年前のインドも発展途上で、
日本の昭和初期のような勢いがありました。

離れていたのは3年ぐらいで、また同じ国での生活が始まりました。

インドに来たばかりの頃(飛鳥)

◼️…一緒に生活したのですか?

妹は日本の仕事を辞めて、
インドに来てから就職活動を始め、
インドにある日系企業に就職しました。

妹が来たタイミングで私も転職し、
今住んでいるグルガオンに引っ越しました。


一緒に住んで、別々の会社で働きながら、
インドのことをもっと深く知ろう、

自分達がこれからやりたいことを探し、
実現できるように
それぞれ力をつけようと考えていました。

起業することを視野に入れつつ、経験を積むことを考えていた時期でした。

大学生の頃から、環境や外的な要因に関係なく、
誰もが自らの可能性を最大限に発揮できる社会を作り、
世界を少しでもよくしたいとの思いがありました。

それを二人で一緒にやるのか、
別でやるのかは
特に話していなかったのですが、
二人の思いは同じで、一緒に創業することを決めました。