むらた ももこ
村田 桃子
北海道北斗市出身。
上京し、映像制作に20歳から携わる。
現在は北海道在住。
肩書きにとらわれず、さまざまな表現活動をしている。
@m_momo103
◼️…独立してすぐお仕事があったのですか?
独立してから中南米のジャマイカに留学しました。
日本人の留学生が少ない国を選びました。
海がきれいで、スローな時間がゆったり流れている場所でした。
愛と平和の国で、自己肯定感がすごく高い人たちに囲まれて、
ほんの四ヶ月でしたが、自分の価値観が変わりました。
それまでの自分は「謙遜」…よく言えば奥ゆかしいということでしょうけれど、
「自分が素敵」「自分を褒めること」を恥ずかしがらなくなりました。
とにかくポジティブになって帰ってきました。
お仕事については、ありがたいことに、
会社員時代の番組でご一緒したディレクターが声をかけてくださったんです。
◼️…フリーランスの仕事はどんな形態なのですか。
基本的に業務委託として、いろんな制作会社さんと提携して働きます。
制作会社の会社員であれば、
基本的に一つの番組を一ヶ月間やってお給料をいただきますが、
フリーランスだと掛け持ちできるので、
複数契約してそれぞれの番組を担当したり、
それぞれの案件を担当したりしながら働くことができるようになりました。
毎日が自由で、自分で考えて自分で動く形がより自分に合っていると感じました。
いろんな違う案件が同時並行で進む中で
どうしたらどう組み立てたら完遂できるかを考えてるのもの好きだし、
行動してコンプリートできた時に達成感がたまらなく好きです。
テレビの枠を超えて
コマーシャルやPR動画、映画など
ジャンルを超えてできましたし、
技術会社のカメラアシスタントとしても現場で経験が積めたので
唯一無二の自分を作り上げられたなと思います。
◼️…大変なことはどんなことでしたか?
ある時、1週間ぐらいインドにロケに行ったんです。
日本に帰ってきて、40度の熱を出して一ヶ月ぐらい下がらなかったんです。
インドで感染病をもらってきちゃったんです。
その病気が自分の心を不安定にさせたんですよね。
あまりにも辛すぎて、正常な判断もできない状態でした。
フリーランスですから自分が仕事ができないと収入もないわけですよね。
それでもう業界の仕事を少しお休みして、
家の近くの居酒屋でアルバイトをしながら、徐々に「人間らしさ」を取り戻していきました。
店長も多分私の状況をわかってくれて、娘のように可愛がってくれました。
お腹すいたらご飯食べにおいでって言ってくれたのも心に沁みました。
◼️…そこを乗り越えて、また業界に戻るんですね?
ディレクターになる夢を実現しようと思って(業界に)戻りました。
元々名刺交換の時に会う人会う人に
「私、25歳までにディレクターになりたいんです」
「ドキュメンタリー番組をやりたいんです」って夢を語っていました。
元気になったタイミングで以前お仕事を一緒にした方に連絡しました。
その方は「いつでも僕に連絡して」って言ってくれていました。
実際にその方がドキュメンタリーの番組を持ってきてくださって、
本当に25歳のタイミングでディレクターとしてデビューすることができました。
◼️…ディレクターの仕事はどうでしたか。
責任もともないますし、大変な仕事でしたが、
達成感がADの時より倍以上あると思いました。
自分の思いや、工夫したところ、遊び心なども 気づいてもらえたりした時には、嬉しいと思いました。
番組によってはADをやったり、ディレクターをやったりする期間が2年ほどありましたが、
今はもう完全にディレクター業です。
◼️…いつ休んでいるのですか?
会社員の時もそうでしたが、 「休み」の概念はありません(笑)。
一本納品したら、次の一本が始まりますし、
もちろん同時に進んでいる時もありました。
今でも仕事とプライベートのオンオフが基本的になくて
朝起きたらとりあえずパソコン開いて、寝る前までもずっとパソコンの前にいる感じです。
「今日仕事は休みだ、アレをしよう」みたいなのは基本的にはないですね。
仕事が生活で、一日のスケジュールに
自分がやりたいことをうまく入れ込んでいるんですね。
とても大変な1日もあるし、ゆるやかな一日もある。
いわゆる「自由」なんです。
自由ってある意味不規則なのですが、私にとってはすごく生きやすい生き方でした。
それが全く苦じゃないので、おそらくこれが天職だったと思います。
◼️…今は北海道にお住まいですが、どんな働き方をなさっていますか?
北海道に帰ってきて会社を作りました。
30歳までに会社を作るのが目標でもあったのでそれを実現した形です。
編集だけだったら映像データを送ってもらえれば場所を問わないので
東京から仕事をいただいて、仕事をしたり、
東京に行って制作する時もあります。
北海道に帰ってきてからの二年間は、
肩書きがわからなくなるぐらいいろんなことをやっています。
例えばですが、着物のアップサイクルです。
北海道に来て2ヶ月経った頃にケニアに行きました。
ケニアでものづくりをされている日本人の方がいて
アフリカでアパレルの企画から販売までを
1週間で体験するみたいなプログラムをやっていたので参加しました。
それまでアパレルは全く興味がなかったのですが、
海外で起業することに興味があったので、行くことにしたんです。
帰ってきたタイミングで、祖母との同居が決まって、
祖母の家を片付けるときに、箪笥の中から着物がたくさん出てきたんです。
親族は全員捨てようと話したのですが、
祖母はどうしてもそれを手放せなかったんです。
私たち家族も知らない思い出がそこにはたくさん詰まっているのでしょうね。
孫の私から見て、その姿が可哀そうだなって思い、
なんとか捨てない方法はないかと思って
ミシンを買って裁縫を教えてくれる人を尋ねて、見よう見まねでバッグを作ったんです。
そうしたら祖母がすごく喜んでくれたんですね。
着物として使い道としてはもうないんだけど、
形を変えることでまたこうやって使い続けることができるんです。
加えて、家庭の中の問題をひとつ自分で解決したような達成感がありました。
それで終わる予定だったんですけど、
そのバッグが思ったより反響良くって、
そのバッグどこの? 可愛いね、着物なの?と
街中で声かけられることが増えたんです。
話を聞くと、着物がまだ残ってるのという方が多いことがわかって、
これは私の家の問題じゃなくて、社会問題なんだなっていうのに気づきました。
じゃあこれを解決するための事業ができたらいいなって思ったら、
ケニアでのアパレルを学んだことが生きるんです。
私はその映像しか作ってこなかったので、
もちろんその事業の立ち上げもわからない。
とりあえず*ピッチコンテストに挑戦しはじめました。
皆さんのフィードバックをもらいながら繰り返して
今、半年ぐらい経ちました。
*「ピッチコンテスト」=自社サービスをプレゼンする機会
私の軸となっているのは「映像」です。
ただ、このプロダクトはまた違ったやりがいを感じています。
テレビは対大勢の視聴者に対して作るものが、ものは一個しかないのですが、
プロダクトは相手が一人しかいない商品なんですよね。
まだ商品化はできていませんが、
少しずつ整ってきたところです。
近年、着物のアップサイクルは国内外からも注目を集めていて、
全国では増えていますが、北海道にはまだないんですよね。
うちが北海道初のアップサイクル企業になれたらと思っています。
◼️…村田さんにとっての「人生のステキ」とは何ですか?
私自身、子どもの頃に見たテレビ番組がきっかけで人生が変わったんです。
スラム街の映像を見て、すごく衝撃を受けました。
地球の裏側には自分とほとんど年齢の変わらない子が
こんな暮らしをしているんだ!と思いました。
「テレビって知らない世界を教えてくれるものなんだ」って思ったんです。
自分もそんなふうに
誰かに世界を伝えられる人になりたいと思ったのが、この業界を目指した原点です。
実際に番組を作るようになってからも、強く印象に残っている体験があります。
少年院を出た子たちが生活する更生施設に密着取材をしたことがあったんです。
その子たちと数日間一緒に過ごして、たくさんのことを考えさせられました。
番組では、その子たちが憧れていたアーティストが施設を訪れて、
特別にコンサートを開くという企画だったんですけど、
放送後に「人生で一番幸せな時間でした。これからは恥ずかしくない人生を歩んでいきます。」といった手紙をもらいました。
自分の作った番組が、誰かの人生を変えるきっかけになれたんだって思ったとき、
あらためてテレビの力を実感しました。
私ひとりではできなかったことも、
テレビというメディアの力、アーティストの力が合わさって
可能になったんだと思います。
「人の夢を叶える瞬間に立ち会えるって、なんて素敵な仕事なんだろう」って心から感じています。
着物については、イベントで5歳の女の子が「かわいい」と言って買ってくれたことがあったんです。
その帯は、実は遺品整理で出てきたもので、元の持ち主はもういないんですけど、
そうやって持ち主が大切にしてきた想いが、形を変えて、次の世代へと受け継がれていく。
それを見てすごく胸が熱くなりました。
着物世代ではない私が、そうした想いの“架け橋”になれるとしたら、
それはとても意味のあることだし、人生のステキだと感じています。
◼️…今後どんな展開を考えていますか?
25歳でディレクターになる、30歳で会社を作る。
そうやって5年ごとに目標を明確に打ち出してきて、達成もしてきました。
ただ、この先の目標は今 模索中です。
今、北海道に住んではいますが、
感覚としては、「地球に住んでるんだ」と思っています。
いつでも東京に行けるし、地球の裏側にだって行くことができるんです。
今の生活が当たり前になって、ずっとぬるま湯に浸かってしまわないように
「本当にこれでいいの?」
「もっと自分は大きくなれるよね?」と いつでも顧みるようにしています。
北海道
可能性は無限にあるし、世界中にあると思うんですね。
北海道が全てじゃないし、東京が全てでもない。
常に世界を見ていたいです。
そしてどこにいても
誰かの人生を変えるきっかけになったり、
あなたは何でもできるんだよって
未来への道を開いていけるお手伝いができたらいいなと思っています。
モンゴルの風景
(了)
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