• 前編

かきざわ としえ

柿澤 寿枝

一般社団法人Mirai Music Resonance Japan 代表理事
祖父と伯父が歌舞伎音楽「清元」の人間国宝という環境に生まれる。
東京芸術大学声楽科、イタリア留学、結婚と離婚を経験。
出産後の産後うつを経て
2024年より「アラフィフの挑戦」と称して約10年ぶりに音楽活動を本格的に再開。
2025年9月、一般社団法人Mirai Music Resonance Japanを設立。

@toshiekakizawa5615
 『挑戦が、未来をひらく』ソプラノ柿澤寿枝|note

柿澤寿枝さん【一般社団法人Mirai Music Resonance Japan 代表理事】

075 歌舞伎音楽「清元」の家に生まれながらクラシックの道へ/社団法人の立ち上げを機に「自分はなぜこの道を選んだのか」という問いの答えに ようやくたどり着いた

【1】

◼️…一般社団法人 Mirai Music Resonance Japan(ミライ・ミュージック・レゾナンス・ジャパン)を立ち上げようと思ったのは、どんな思いからですか?

2ヶ月前、9月4日(2025年)に登記をして、ようやく形になりました。
計画自体は去年(2024年)10月に「やりたい」と言って動き出しましたので、
一年も経たずに設立に至りました。

私は、歌舞伎音楽の浄瑠璃「清元(きよもと)」の家に生まれ、祖父と伯父が人間国宝という環境で育ちました。
音楽家や芸術家に囲まれた家庭で過ごすなかで、
子どものころからずっと感じていたのは、
日本人の文化度の低さや芸術家の地位の低さ、そして伝統文化への関心の薄さでした。
そうした状況に、子どもながらにずっと憤りのようなものを感じていたんです。
それをどうにかしたいという思いをずっと心の奥に抱いていました。

私は邦楽の世界からは離れクラシック音楽の世界に進み、
東京芸術大学に進学し、そこで素晴らしき合唱の世界と出会いました。
それから20年以上の月日が経ち、
あるとき「一般の方々と一緒に合唱をしてみませんか」と声をかけられましたが、
最初は正直、まったく気が進みませんでした。
しかし、いくつかのきっかけが重なり、最終的にはその企画を引き受けることになりました。
2024年の3月から約半年間、楽譜も読めない方も含めた一般の方々と合唱の練習を積み重ね
同年9月には約1,200人規模のホールで開催された合唱コンサートに出場しました。

2024年9月に参加した合唱コンサート。初めて、一般の方々と合唱に取り組み、多くの気づきがありターニングポイントとなった。

練習は想像を超える苦難の連続で、「もう二度とやらない」と思ったほどでしたが、
終演後には参加者の皆さんの放つエネルギーに圧倒されました。
クラシック音楽の「こうあるべき」という固定観念を持たない方たちの集中力や、
新しいことに挑戦するワクワク感には、本当に驚かされました。

その体験を振り返ったとき、
私は幼いころに見ていた「粋な旦那衆(だんなしゅう)」と呼ばれる方々の姿を思い出しました。
旦那衆とは、単にお金を出して芸術を支えるのではなく、
自らもお稽古をして、その世界の厳しさや奥深さを理解し、
精神を高めて自分の仕事にも生かしていくような方たちのことです。
音楽家と支援者が互いに敬意をもって切磋琢磨し、
文化を共に高めていく関係性が、そこにはありました。

歌舞伎十八番の『助六』という演目では、
市川團十郎家が演じる際、旦那衆たちが「河東節(かとうぶし)」と呼ばれる浄瑠璃を
舞台上で演奏するという伝統があります。
彼らは障子の奥に座って姿は見えませんが、
本興行に参加し、舞台の一部として歌舞伎界を盛り上げていました。
そうした一般の旦那衆が舞台に立つという文化が、歌舞伎の世界には存在していたのです。
ヨーロッパの「ノブレス・オブリージュ」とは一線を画す、
この日本独特の文化芸術を支援する在り方をクラシック音楽の世界にも取り入れたいと考えました。
伝統文化芸術を支援するというのは難しく限られた人だけができること、と考えられがちですが、
お金を出すだけではなく、自らもその世界に関わり、体験し、学ぶことで、

支援を「自分ごと」として感じてもらえるようにしたいと思いました。

多くの人は「支援」という言葉に、
自分の一部を削って差し出すような痛みを想像するかもしれません。
けれども本来は、文化芸術との関わりを通じて自分自身の人生が豊かになっていく。
そのことを体感してほしいですし
その「挑戦」とも言える取り組みが、イコール支援であるという概念を伝えたいのです。

この考え方を広め、体験してもらう場をつくることが、
一般社団法人 Mirai Music Resonance Japan を立ち上げた大きな理由です。

◼️…清元の家で育った子ども時代から、クラシック音楽の道へ向かうまでの経緯を教えてください。

うちは、芸一筋の家でした。

私が通っていた雙葉学園では、芸術は生業としているお家の方はほとんどいませんでした。
お友達の家に遊びに行くと、自分の家とはまったく違う空気を感じて、
子どもながらに「うちは少し変わっているんだな」と思っていました。

友達のご両親の多くは海外経験があって英語も堪能でしたが、
うちの両親は日本語の「ひ」と「し」の区別もあやしいような江戸っ子でした。
学校の参観日には、周囲が申し合わせたように全員ネイビーのスーツという中、母だけが着物で来ていました。
「着物を着て何が悪いんですか?」という人でした。
そんな具合で、よくも悪くも普通ではない環境で育ったと思います。


歌舞伎は江戸時代に生まれた芸ですが、うちは代々続く家柄ではなく、
父方の祖父の代で名が知られるようになった家です。
いわゆる「何代目」という家系ではありません。

母も歌舞伎の世界にいた人で、女性は大人になると舞台に立てませんが、子役なら出ることができました。
母は小柄だったので、大人になっても子役として舞台に出ていた、本当に根っからの舞台人でした。
週末に家族で出かけるようなことはほぼなく、私は歌舞伎座の楽屋で過ごしました。
小さいころから歌舞伎が大好きで、歌舞伎座の楽屋は私の遊び場でした。
楽屋から花道の下を通り、そこを抜けて客席まで行けたので、自由に出入りしていました。
舞台袖から本公演をのぞいたり、俳優さんの楽屋におじゃましたり。
玉三郎さんがお化粧しているところをそばで見させてもらったこともあります。



私は舞台には立っていません。
男性社会で年功序列の世界の中にいても、自分は日の目を見る事はないと感じました。
ここにいても先が見えないと思い、クラシック音楽の道へ進むことにしました。



歌は小さいころから大好きでした。
小学校の音楽会では一人で歌わせてもらうこともありました。
小学校高学年で宝塚に夢中になり、宝塚に入ることを夢見て中学生から歌のレッスンを始めました。
けれども、宝塚だと中卒や高卒になってしまうという理由で、親に反対されました。
そこで「芸大を目指しましょう」ということになり、高校生のころから本格的に取り組み始めました。

小さいころから三味線やお琴、ピアノにも触れていましたが、楽器はあまり得意ではありませんでした。
ピアノは、芸大の試験曲を弾けるようにするためだけに一生懸命練習した、という感じです。

◼️…東京藝術大学の声楽科に入って、どんなことを感じましたか?

入学してすぐに驚いたことがありました。

今まで見たことがないほど勉強が苦手という人が
ひとたび歌うと、一瞬にしてその場の空気を変え人を虜にする魅力に溢れていたのです。

その一方で、自分は現役合格したもののなかなか思うように伸びませんでした。
とても著名な先生の門下に入りましたが、発声方が合わず、壁にぶつかる日々でした。
18歳の私は若気の至りで、思い詰めた果てに「先生の発声、間違っていると思います」と口にしてしまって……。

あとから聞いた話では、学校中が大騒ぎになっていたそうです。
そんなトラブルもあり、すっかり歌うことができなくなり
歌い手として非常に重要な20代は、全く思うように進まない年月が続きました。

◼️…東京藝術大学卒業後は、どのような道に進んだのですか?

芸大を出たからといって、歌で食べていける人は本当にわずかだと思います。

地方の方は地元に戻って教えたりされる方も多いですが、
「自分が歌ってステージに立つ」だけで成り立っている人はごくわずかです。
私自身も、もちろんオペラ歌手として食べていくことを目指していましたが、
今思うと心のどこかで最後まで目指し切れていなかったところがありました。

それでも、もがいてもがいて、20代後半にイタリアへ行きました。
当時、音楽家の育成に熱心な支援者の方がいらして、
アジアから世界に通じるオペラ歌手を育てたいという思いを持って活動されていました。
ご縁があって私もその方の紹介で、イタリアの著名なバリトン歌手のもとで学ぶ機会を得ました。
そこには中国や韓国からの留学生もいて、
日本人の「私が私が」と前に出る感じのなさや、体格の違い、
そしてアジア人が西洋の伝統音楽に挑むことの難しさを身にしみて感じました。

そんな現状を目の当たりにして、ヨーロッパで歌いたい、と言いながらも、
どこかで「絶対に無理だ」と自分で自分を否定し続けていたと、今振り返ると感じます。

無我夢中ではありましたが、今思えば、努力の方向性が誤っていたのだと思います。

イタリアには行ったり来たりで、トータル2年弱しかいません。
現地の音楽院に入ったわけではなく、先生を追いかけながら、いくつもの街を転々としていました。
ビザを取らずに滞在できる期間が三ヶ月でしたので、
三ヶ月行っては日本に帰り、アルバイトでお金を貯めてまた行く――その繰り返しでした。
また、音楽の世界でのいろいろな圧力や理不尽さをうまく乗り越えるメンタルが整っておらず、
お金もないく仕事もない、そんな状況が続き心身のバランスを崩してしまう――そんな状態でした。

そうしたことが重なって、ある日突然、朝起きた時に「やめる」と決めてしまいました。
私はゼロサム気質なので、ゼロか百か、という決め方をしてしまうところがあります。

今振り返れば、当時は生活もメンタルも苦しくはありましたが、
音楽だけに没頭することができた、人生で最も贅沢な時間でした。
しかし、当時はその環境の有り難みを理解できず、音楽の道を離れることを決断してしまいました。

30代前半でした。