あべ こうこ
阿部 孝子
【1】
◆…服飾の道に進もうと思ったきっかけはどういうことでしたか?
母の影響が大きかったと思います。
私には姉が二人いて、一番上の姉と9つ、すぐ上の姉と6つ違うので、
小さかった私は母にいつも連れられていたのでしょうね。
そういう意味でも母の影響が大きいと思います。
長女は本が好きだったので文学部に入りました。
二番目の姉は絵が好きだったので、美術の教員になりました。
母は私に手に職をつけなさいとよく話していたので、
私はこういう選択をすることになりました。
母は、自分の着物や服にこだわりのある人だったんです。
夏になると浴衣やワンピースを作ってくれたり
冬にはセーターを編んでくれました。
伯母が呉服屋さんで、そこへ行くと倉庫に連れていってくれて、
たくさんの中から布地を選ばせてくれるんです。
毛糸を買いに行く時も、
この色とこの色で、こんな配色でセーターを作って欲しいと言ったり…。
そういう環境にありました。
◆…ミシンなど、機械にも早く触れていたのでしょうか?
母がミシンも、編み物機械も触らせてくれました。
触っちゃいけない、ダメだよと言われなかったので、
触れる機会は多かったのかなと思います。
壊れてもいいって思ってくれたのでしょうね。
◆…自分で作品を作るようになったのはいつ頃ですか?
他の人と一緒ですね。
小学校の高学年で家庭科がスタートした時です。
ボタンをつけるとか、自分流にお人形のお洋服を作るとか…、
好きでやっていました。
もしかしたら運針(うんしん)は周りよりも上手だったかもしれません(笑)
中学の時に家庭科の授業で、ブラウスを作ったんですね。
お友だちと生地を買いに行って、花柄の生地を選んだのをよく覚えています。
やはり、小さい頃から触れている内に
素材、色、柄などが、染み付いていたのでしょうね。
ずっと後になってパッチワークをやろうとした時に
綺麗な布や色彩を組み合わせていくのが楽しかったです。
◆…大学では服装学科で学ばれたのですね。
そうです。
大学は、一般教養から始まって、専門分野へと進んでいきます。
まずは人間の体を知らなきゃいけないので、
学生同士モデルになって、その人の体型を細かく見ていったり、
筋肉のつき方などを学びました。
それが今役立っているんです。
お客さまがお店に入ってこられた時に、
この人はちょっと前かがみだな、
ここの寸法が足りないから窮屈に感じるのだなと瞬時に感じ取れます。
大学のカリキュラムはよく考えられていたと思います。
3年生からコース別になって
西洋服装史、日本服装史、デザイン、色彩学、繊維学、ミシン工学、人間工学…など色々あるのですが
手に技術をつけたいと考えて、被服構成コースに進みました。
◆…大学では、どんな作品を作ったのでしょうか?
スカートを作るところから始まって、カクテルドレスも作りました。
毛皮を扱うこともありました。
学校外のことですけれど、
早稲田大学の演劇研究クラブの舞台衣装を手がけたことがあります。
友だちのつながりで関わることになったのですが、
舞台が好きな友だちだったので、宝塚の舞台もよく見に行きました。
それが今役に立っていると思うのは、
舞台に立つ方、例えば声楽の方、ダンスをなさる方の衣装をてがける時に
舞台映えする衣装を提案できることです。
友だちにも恵まれましたし、
無駄なことはひとつもなかった、全て役に立っているなと思います。
◆…お仕事をスタートしたのは秋田に帰ってきて、すぐですか?
いいえ。
秋田に帰ってきて、まずは自動車免許を取りました。
そして、結婚して、子どもにも恵まれました。
ですから、ずっと仕事をしたことがなかったんです。
子どもが学校から帰ってくると家にいるお母さんでした。
下の子が中学校に入ったタイミングで、仕事をすることになりました。
リメイクの仕事に出会ったのはその時です。
◆…リメイクの仕事をどう感じましたか?
お店に勤め始めた頃は、
丈を詰める、ほつれを直す、肩幅を直す等、
今の私の仕事から比べると シンプルな仕事だったと思います。
ただ、やっていく内に、面白い仕事だなと感じました。
それまでと洋服に対する気持ちに変化が生まれてきました。
「あぁ、お洋服って、こんな風に長く大切に着るものなんだ」と思ったんです。
作ってはいましたが、直すという感覚がなかったので、
(お洋服って)奥が深いんだなと思いました。
できたものを修理するということは、完成品から逆の工程をすることになります。
作ることしかしてこなかったので、これは面白いなと思ったんです。
初めて紳士ものを手掛けたのも、この時です。
紳士ものは、ファスナーの付け方も、芯の使い方も違います。
そうやって、だんだん覚えていったんです。
そうして数年勉強した後、独立しました。