• 響屋大曲煙火

    秋田県

明治から五代にわたり、秋田・大曲で花火づくりを受け継いできた新山家。
丸さ・色の変化・消え際の美しさ──。
世界の花火師が驚嘆する日本の「HANABI」の美を追求しながら、
響屋大曲煙火は、失われつつある伝統技法の復刻や、
CEマークやEXナンバー取得といった国際基準への適合など、
さまざまな挑戦を同時に進めています。

「花火は必ず戻ってくる」。
その信念を胸に、コロナ禍の渦中でも未来を見据え、新しい工場を建て、歩みを止めませんでした。
受け継いだものを守りながら、次の世代へ、そして世界へ──。
響屋大曲煙火・代表取締役の齋藤健太郎氏が描く“花火の未来”について伺いました。

齋藤健太郎氏(中央)

ルーツ

花火づくり一筋で受け継がれてきた系譜

Q……..響屋大曲煙火の歴史を教えてください。

齋藤:

明治27年(1894年)新山家四代目の竹松が花火づくりを始め、奉納煙火造りを開始しました。
そこから代々、花火師として続いてきて、兄(良洋)や私(健太郎)の代で五代目になります。

二代目の岩五郎の頃から全国の競技大会に出品するようになりました。
当時のプログラムを見ると、社名ではなく個人名が掲載されていて、岩五郎の名前が記録として残っています。

三代目の祖父・虎之助は、終戦後の秋田に帰ってきた後、青木義作氏(長野県 紅屋青木煙火店)のもとで修行をしました。
花火一筋に生きた人で、「割物王」の異名をもつまでになりました。
昭和63年(1988年)には、業界二人目となる「現代の名工」を拝受しました。

四代目の父・良治は、婿で新山家に入った職人で、祖父から直接、花火づくりを教わっていました。
父は割物も作っていましたが、得意だったのは千輪や吊り物、そして昼花火など繊細な表現の花火です。

平成14年(2002年)新山煙火店は法人化して、大曲花火化学工業有限会社を設立し、兄・良洋が代表取締役に就任しました。
私自身は平成19年(2007年)実家から独立し、株式会社響屋を設立しました。

ところが平成29年(2017年)の冬、父・良治が不慮の事故で亡くなりました。
父はかねてから「いずれは一緒に(花火屋を)やった方がいい」と言っていたことや、
元々の新山煙火店の工場も古くなってきていたことなどから、
新山家が受け継いできた伝統技術と響屋が一つになり、
響屋大曲煙火株式会社と社名を変更して現在に至ります。

Q……..斎藤社長と花火との出会いを教えてください。

齋藤:

私にとって“花火”は、家族のいる場所でした。

自宅の目の前に工場があり、そこへ行けば家族がいる。物心ついた時には、それが当たり前の光景でした。
打ち揚がる花火よりも、作っている姿のほうが身近で、それが私にとっての“花火”でした。

夏が繁忙期なので、夏休みもどこへも連れて行ってもらえず、
子どもの頃は「大変な仕事だな」と思っていて、正直、花火師になりたいとは思っていませんでした。

そんな中学三年生のとき、たまたま桟敷で花火を見る機会がありました。
周りのお客さんがとても喜んでいて、その歓声を聞いた瞬間、
家族が精魂込めて作った花火が打ち揚がるのを見て、誇らしく感じました。
「いい仕事だな」と初めて心から思ったのも、そのときです。

“自分もいつか花火に携わりたい”と思いながら、“三男だしな…”という迷いもありました。
ちょうどその頃、兄(良洋)が家業を継ぐために長野へ修行に出ていました。

祖父や父に「花火の仕事をしたい」と告げたとき、
「兄弟仲良くやっていけばいい」と言われ、それが背中を押してくれました。

高校時代には、花火師になることが自分の夢になっていました。

Q……..独立したのはどういう経緯ですか?

齋藤:
国内で“雷(らい)”と同類の爆薬による製造中の大きな事故があり、何人もの方が亡くなりました。
“雷”というのは、運動会や神社のお祭りなどで打ち揚がる花火です。

この事故で“雷”はとても危険なものという認識が高まり、
国内で“雷”をつくる職人が一気に減ってしまったんです。
国内供給が減った分、中国製の雷が流通しましたが、今度は打ち上げ現場での事故が多くなりました。

そこで、自分で“雷”をつくろうと思ったんです。
安全で品質のいい“雷”をつくり、全国の花火屋さんに卸せる体制を整えようと動き始めました。
私が、26歳の時でした。

金融機関に毎日通い、信用計画書を持って頭を下げ続け、
数ヶ月後にようやく融資が決まりました。

工場を建てて許可申請を進めましたが、
秋田では戦後初めて新しく花火屋が誕生するケースだったこともあり、
行政側も手探りで調べながらの許可作業になり、時間がかかりました。

こうして工場が整い、2017年に“響屋”がスタートしました。
中国製にはないグラデーションの効いた手の込んだ花火を、国内へ卸すことも始めました。

これは「兄と喧嘩して袂を分つ」という話ではなく(笑)、
あくまで “必要とされている花火をつくり、届けるため”の独立でした。

技と仕事

真円の美と、新しい表現が生まれる現場

Q……..花火づくりにおけるこだわりを教えてください。

齋藤:

(良洋)は、割物に強いこだわりを持っています。
真円に開き、色がパッパッパッと一斉に変わって、そして潔く消える──
そんな“理想の丸”を追求して作っています。

私が大切にしているのは、“基本”をおろそかにしないことです。
花火は生き物なので、火薬の湿り具合、季節の温度や湿度によって姿が変わります。
その都度調整しながら、「こう上がってほしい」というイメージに近づけていきます。

また、昔ながらの手の込んだ花火を継承したいという思いもあります。
落下傘に星を吊るす技法など、かつては当たり前のように作られていた花火も、
技術の継承不足や時間と労力がかかることから、今はほとんど作られなくなりました。

昔のプログラムを見ると、タイムパフォーマンスとは程遠い、手間を惜しまない花火が数多く載っています。
そうした花火を、もう一度復刻させたいという気持ちがあるんです。
昼花火を卸しで作っているのも、「残すべき伝統」だと思っているからです。

一方で、新しいものが生まれやすい空気づくりも大切にしています。
「こんなのやってみよう」「これはできるかもしれない」と意見が出やすい職場です。
うちは職人の平均年齢が35歳と若く、県外から入ってきたスタッフも多い。
外で得た感覚や流儀が加わることで、自然と新しい発想が集まります。

毎日、朝礼を行い、毎月、全員ミーティングもしています。
情報を共有しながら、基本を守りつつ、“新しい表現”をつくる余白を残すこと。
それが、響屋大曲煙火のこだわりです。

Q……..注目の職人はいますか?

齋藤:

います。ひとり挙げるなら、今野 祥(こんの しょう)です。

彼はアルバイトから入り、今では自分の“分身”のような存在です。
私が工場にずっといられない分、
「こんな花火をつくりたい」「こういう表現を目指したい」という思いを しっかり受け継いでくれています。

手先が器用で、センスもある。
褒めるとすぐ調子に乗るところがあるのがネックですが(笑)、本当に信頼している若手です。
今は演出も任せています。

挑戦と誇り

世界基準を越えて、その先へ

Q……..CE(シーイー)マークを取得するまでには、どんな苦労がありましたか?

齋藤:

ヨーロッパに花火を輸出するためには、CEマークという安全基準を満たさなければなりません。
電化製品などにも表示されていますが、EUで流通させるには、この基準をクリアした製品である必要があります。
花火も同じで、例外ではありません。

ところが、花火のCE検査を行う機関が日本にはありません。
電化製品や食品であれば国内に出先機関があり検査できますが、
花火だけは海外の検査機関に依頼するしかない。
しかも、取得に動いたのはちょうどコロナ禍。
「日本に来てもらえませんか?」とお願いしても、当然、来日ができない状況でした。

それでも、CEマークを取らなければヨーロッパに輸出できない。
“来てもらうしかない” と粘り強く交渉し、
最終的に「分かった、行くよ」と折れてもらい、検査機関の担当者に日本へ来てもらえることになりました。

書類の作成も大きな壁でした。
提出書類はすべて英語で作らなければならず、花火の種類ごとに詳細な仕様をまとめていきます。
うちの花火が特別安全ということではなく、
“日本の花火は誰が作っても安全” なのですが、
それでも形式上、すべてのデータを示す必要がありました。

検査では、まず 花火を10発ずつ 用意し「恒温槽試験」を行います。
コンテナ輸送時に内部が 70〜80℃ になる環境を 4日間 再現するのです。
赤道付近を通過する際の温度を想定した試験です。
その状態で暴発しないかどうかを確認します。

続いて 衝撃試験
船の揺れやコンテナの崩落を想定し、あえて衝撃を加えて爆発の有無を確かめます。

さらに 落下試験
箱ごと落として内部がどう変化するかをチェックします。

こうしたハードな試験をすべてクリアした花火が弊社に戻り、
最後は検査員が来日し、打揚花火として実際に打ち揚げ、安全に開くか を確認します。

戻ってきた花火を打ち揚げたとき、まん丸に美しく開きました。
その結果「問題なし」 と判断され、CEマークの取得に至ったのです。

「暴発したらどうしよう」と本当にドキドキしながら見守りましたが、
厳しい条件を乗り越えて合格をもらえたことは、大きな挑戦であり、誇りでもあります。

Q……..アメリカ向けの輸出には「EXナンバー」が必要だと伺いました。

齋藤:
世界で最も花火が消費されている国はアメリカです。
そのアメリカに花火を輸出するためには、
「EXナンバー」 という、花火一つひとつに付与されるライセンスを取得しなければなりません。

EXナンバーを持っている花火屋は日本にもわずかに残っていますが、
それは「かつて輸出していた時代の名残」で、
全サイズ・全種類を一社で揃えているのは、現在は響屋大曲煙火だけです。

サイズごと、種類ごとに個別の許可が必要で、
種類が多いほど申請も増え、管理も複雑になります。

アメリカの検査では、花火そのものを送って試験するというより、
火薬成分の提出や、使用してはいけない薬品の確認、
アメリカの花火業者からの「この花火は間違いない」という認証書の取得など、
書類関係が非常に多く、手続きはとても大変 です。

さらに、日本は“火薬”に関する輸出規制が世界的に見ても厳しく、
法律上は弾薬や爆発物と同じ扱いになります。
そのため船会社も運搬を嫌がり、
船の手配が難しかったり、見つかっても高額になったりと、物流面でも大きな壁があります。

こうした手続きを一つずつ乗り越え、
響屋大曲煙火としては近いうちに すべてのサイズの EX ナンバーが揃う予定です。

アメリカへの本格輸出はこれからですが、
その前段階としてすでに韓国・中東などへの輸出が始まっています。
ただ、コロナ制限解除後に国内需要が急回復し、
全国の花火屋で“球が足りない”状況になったため、
今は国内供給を優先しつつ、生産性を上げながら少しずつ海外向けの準備を進めている段階です。

花火と未来

止まらなかった理由。響屋が見ていた未来

Q……..これからの花火の未来をどのように考えていますか。

齋藤:

コロナ禍では、全国のイベントがすべて中止になり、
売り上げも大きく落ち込みました。
全国の花火業者さんが等しく厳しい状況に置かれた時期でした。

ただ、そんな中でも自分は “制限が明けたあとのこと” を考えていました。
必ず花火はまた必要とされる。
日本の花火は海外でもきっと喜ばれる。
そのときにしっかり応えられるように、今できる準備をしておきたかったんです。

だからこそ、コロナ禍の間に社内では
「つくりたい花火」へのチャレンジ をどんどんしてもらいましたし、
海外輸出への準備も、時間をかけてじっくり進めることができました。
さらに、自分としては 新しい工場を建てる という決断にも踏み切りました。
制限が明けたとき、必ず花火は戻ってくると信じていたからです。

自分が未来を信じられたのは、
2017年に大曲で行われた 国際花火シンポジウム の光景があったからです。
そのとき海外の花火会社の方が、日本の花火を見てこう言ったんです。

「これはファイアワークスじゃない。HANABI(花火)だ」

丸さ、色の変化、消え方──
日本の花火は、世界の人たちから見ても本当に特別なんです。
その言葉を思い出すたび、
「この技術を次の世代につなげたい」「もっと世界に届けたい」
という気持ちが強くなります。

来年7月には、アメリカ建国記念の式典で響屋の花火が打ち揚がる予定です。

これから先も、
日本の花火の良さを残しながら、新しい表現にも挑戦していきたい。
そして、世界のどこにいても「日本の花火はすごい」と言ってもらえるような、
そんな未来をつくっていきたいと思っています。

花火をつくる人に会いにいく
Copyrighted Article. Do not reproduce without permission.

響屋大曲煙火株式会社

創 業:明治27年(1894年)

代表者:代表取締役 齋藤 健太郎(5代目)

所在地:〒014-0103 秋田県大仙市高関上郷字高屋敷70-3

TEL:0187-63-2848

FAX:0187-63-2898