• 生島煙火

    大分県

大正二年の創業から、一世紀を超えて火をつないできた生島煙火。
九州・大分の地で、花火を「打ち上げる」だけでなく、
信頼される花火屋であることを何より大切にしながら、その歩みを重ねてきました。

音楽花火への早い挑戦、電気点火への転換という大きな決断、
そして原材料や安全といった、避けて通れない未来の課題。
新しい表現に挑み続ける一方で、
「地元に迷惑をかけない」「事故を起こさない」という、
祖父から受け継いだ言葉を、いまも胸に刻み続けています。

花火は工業製品ではなく、見た人の心に残って、初めて価値が生まれるもの。
歓声が上がり、記憶として残る一瞬のために、生島煙火は今日も、次の一発に向き合っています。

生島煙火・代表取締役社長 生島雄作氏に、
花火づくりの原点と、これから見据える未来について話を聞きました。

生島 雄作氏(右)

ルーツ

“信頼される花火屋”という原点

Q……..生島煙火の始まりを教えてください

生島:

大正二年創業と言われていますが、当時は今みたいな会社という形ではなくて、個人で火薬を作っていたような時代だったようです。
初代は曽祖父にあたる人で、明治40年代に大分市で花火を作っていたところに入門したと聞いています。

二代目になる祖父は、公職をしていたため実は花火の製造はほとんどしていません。
その頃、父(三代目)が手伝い始めた時代の話を聞くと、
愛知の方から全国を転々としながら技術を教えて回る職人さんがいて、
その方が一時期うちに関わっていたらしいんです。
だから父はよく「うちはもともと三河流なんや」と言っていました。
それが生島煙火の技術的なルーツと聞いています。

初代の工場では、昭和28年、不慮の事故で、数名の犠牲者を出してしまいました。
その場所では再開できず、祖父が関係者や遺族の方々の理解を得て、1年後に別の場所で工場を再建しました。
移転後の工場は、結果的に弊社の歴史の中で一番長く稼動した工場になりました。

私が手伝い始めたのも、その工場の時代です。

子どもの頃は、工場によく遊びに行っていました。
家から歩いて行ける距離でしたので
製造には直接携わっていなかった祖父ですが、
週に何度か工場に来た際には整理整頓、防火用水の状態など厳しく従業員に保安指導をしていたと記憶しています。

また祖父に連れられて、あちこちの現場にも行っていました。
現場では、事故を経験した祖父が大きなメガホンを持って、
「気をつけろ」「気をつけろ」と事細かに注意していたのを、今でも覚えています。

山口県や島根県など、遠方の現場にも連れて行ってもらいました。
公職をしていた祖父の知人会う人会う人に「跡取りだ」と言われ続けて、
花火の仕事をしたいと考える前からもう刷り込まれていたという感じですね。
小学校の作文では当時流行っていたドラマの影響で「将来は刑事になりたい」と書きながら、
心の中では「(花火師になるんだから)そんなわけないやろ」と思っていました(笑)。

本格的に手伝い始めたのは20代半ばです。

最初に作ったのはポカ物でした。
中でもパラシュートで国旗などを吊るす花火はパラシュートも全部手作りで国旗などの色を塗る作業もやりました。
最初は割り物ではなく、そういう手の込んだ花火を中心に、玉を込める作業を手伝っていました。

その後、星掛けや配合をやるようになりました。
途中から父に営業を任されて、製造から少し離れた時期もありました。

当時は、点滅する花火など新しい表現が出始めた頃で、
父の付き合いで交流のあった県外の花火屋さんから色んな配合を教えてもらい、テストを繰り返していました。

一人前になろうという意識よりも、新しいものを次から次に試してみたい、その気持ちの方が強かったと思います。
見たことのないものを作るのが、ただ楽しかった。
それが正直なところです。

もうひとつ大きかったのが、他の花火師さんの花火を見て受けた刺激です。
中でも強く印象に残っているのが、
群馬の菊屋小幡花火、小幡清秀さんの型物花火「帰ってきた赤トンボ」です。

テレビであれを見た時は、「こんな花火があるんか」と、本当に衝撃を受けました。
「ああいう型物花火を、自分も作ってみたい…」そう強く思いました。

「まだ誰もやっていないものをやってみたい」
「見たことのない花火を作ってみたい」その気持ちが強かったと思います。

新しいものに挑戦すること。
それを続けながら、結果として、地域やお客さんから“信頼される花火屋”であること。
それが、ここまで続いてきた生島煙火の原点だと思っています。

技と仕事

電気点火への転換という大きな技術決断

Q……..生島煙火として、いま力を入れている「花火の表現」とは何ですか?

生島:

最近は、色にこだわった玉を増やしています。
中間色によってよりカラフルに見える取り組みをしています。
その色が「綺麗だ」と言われることが多いです。

技術的な配合の話をすると、金属粉を多く使うので、かなり明るくなります。
ただ、明るくなるということは、逆に色が薄くなってしまうということでもあります。
また、金属粉を増やしすぎると安全面でもより注意が必要になってくるので、他の配合薬よりも慎重な作業を行なっています。

花火の見せ方にしても、作り方にしても、
新しいところにチャレンジしていきたいと思っています。

音楽とシンクロさせる打ち上げでは、単純にリズムに合わせて打ち上げるだけなら、正直、誰でもできる。
そこからもう一歩先、もう少し違う世界に行けたらいいな、という気持ちは、ずっとあります。

Q……..技術的な転機となった出来事は、どんなことでしたか

生島:

30年以上前になりますが、
当時の大曲の大会提供花火を参考に、
「これを別府でやってくれ」と言われたのが、大きなきっかけでした。

音楽に合わせて花火を打ち上げる、いわゆる音楽花火は、当時はやったことがありませんでした。
ネットもない時代ですから、DVDやビデオを片っ端から見て、かなり調べました。

玉の大きさも、クオリティも全然違う。
それでも、「近づけて、音楽に合わせてやってみよう」ということで、
二日間の花火を、なんとかやり切りました。

九州では、当時ほとんど前例がなかったと思います。

Q……..電気点火への転換は、どのように進めたのですか

生島:
当時の九州では、まだ直接点火が主流でした。
市販の電気点火機は、当然ありません。

そこで、花火の手伝いに来てくれていた近所の電気屋さんにお願いして、
一から手作りで点火機を作ってもらいました。

50点火くらいの点火数でしたが、
それを使って、30分から40分間、すべて音楽に合わせて花火を打ち上げました。

今思うと、「よくやったな」という感じです。

また当時は、海外製の玉も多く使っていました。
ただ、通常よりも低い高さで開いたりと危なっかしい玉もあったので
このまま職人に直接点火をさせるのは無理だ、と判断しました。
そこから、直接点火を全廃して、すべて電気点火に切り替えました。

この判断は、会社としても非常に大きな転換点だったと思います。

もう一つの大きな転機は、現工場長との出会いです。

海外製の玉を使いながら、電気点火に移行していく中で、今の工場長が入社しました。
製造の流れや打揚プログラムを理解してくると、彼がこう言ったんです。

「海外製の玉だと、色が揃わない。
ワイドスターマインにすると、色彩が調和せずに目立ってしまう。
綺麗に見せたいなら、完全に自社製にしましょう。」

その一言で、海外製の玉をやめ、完全に自社製へ切り替えました。
ここも、かなり大きな転換点でした。

挑戦と誇り

支えてくれたのは 人だった

Q…….花火師として、誇りに思うことはどんなことですか?

生島:

多くのお客さんを一度に魅了できることですね。
歓声が聞こえると、毎回、鳥肌が立ちます。
逆にお客さんの反応が薄いと「何が悪かったんだろう?」と反省させられることも少なくないです。

Q……..印象的な花火大会を教えてください

生島:

最近では、久しぶりに復活した大分市の花火大会です。

運営母体の事情から、大会運営を「大分市」が担う形に移行しようとするタイミングで、コロナ禍が始まりました。
その影響で、大分市の花火大会は一旦中止になりました。

2024年、「復活させたい」ということで大分市からお話をいただき、打揚を担当することになりました。
ところが、着々と準備を進めているなか、
花火大会の前日に台風の影響を受け、一週間後への延期が決まりました。

一週間での現場復帰です。
河川敷の会場だったので流木などを撤去して会場を整備し、設営をやり直して、
なんとか奇跡的に一週間後に開催にこぎつけました。
運営の方々には感謝しかなかったです。

踏んだり蹴ったりの状況でしたが、
多くのお客さんに喜んでいただき、結果としては大成功だったと思います。
「花火を待っていてくれたんだな」と、強く感じました。

Q……..「人」という面で、生島煙火を支えている存在を教えてください

生島:


花火製造というわけではありませんが、花火業界の中では意外と有名な*Z隊長がいます。
もともとは花火に関するブログを書いていて、最近はTwitter(X)やInstagramなど、SNSでの発信もしています。

Z隊長は、雰囲気が私に似ていると言われますね。体格は私よりいいですけど。
研修会や会議に行くと、「いつも楽しみに見てます」と間違って声をかけられることがあります。
「いや、それ俺じゃないよ」って(笑)。

花火業界の中では、意外と知らない人はいないんじゃないかな、と思います。

*Z隊長の珍道中

花火と未来

原材料と技術、安全という未来課題

Q……..技術の進化について どのように見ていますか?

生島:

近年よく見られるグラデーション表現は凄まじいですね。
ここ数年で、一気に出てきた表現だと思います。

そういう意味では、若い人たちの発想力は本当にすごいなと感じます。

ただ、その分、金属粉を多く使う配合になりますから、
感度や摩擦感度といった面では、従来の配合に比べると、やはり危険度は上がってしまいます。

だからこそ、一つ一つ確認しながら慎重に進めていきたいと思っています。

Q……..安全について、特に大切にしている考え方はありますか?

生島:

祖父(二代目)は、工場事故を経験した人間です。
生前から、私が手伝い始めた頃も含めて、
いつも口をすっぱくして言われていたのが、
「まずは、地元の町民の方に信頼される花火屋にならんといかん」という言葉でした。

事故は頻繁に起こるものではありませんが、
人に怪我をさせてしまうことは、絶対にあってはいけません。

常に危険と隣り合わせだということは、スタッフにも常日頃から伝えています。

新たなことにチャレンジはしていく。でも、安全は絶対条件です。
そこは、強く意識しています。

Q……..社長にとって、「花火」とは何でしょうか?

生島:

私にとって花火は、家業としてずっと隣にあったものですが、
「日本人って、本当に花火が好きなんだな」と、あらためて思います。

コロナ禍で、2020年頃からはイベントが一気になくなりました。
それでも、サプライズ花火をきっかけに少しずつ盛り上がっていって、
2023年には六割ぐらいまで戻ってきました。

ああ、やっぱりこの仕事は求められているんだな、
なくしちゃいけないものなんだな、と感じました。

花火は、単なる工業製品ではありません。
見てもらって、感動してもらって、初めて価値が生まれるものです。

その瞬間に「きれい」「すごい」と思ってもらえるだけじゃなくて、
後々まで、心の中に思い出として残る花火。
そんな花火を、これからもずっと作り続けていきたい。
それが、花火師としての思いですね。

花火をつくる人に会いにいく
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株式会社 生島煙火

創 業:大正二年 (西暦1913年)

代表者:代表取締役 生島雄作 (四代目)

所在地:〒879-7306 大分県豊後大野市犬飼町下津尾3832番地13(本社)

TEL:097-578-0500(代)

FAX:097-578-0654