• 北日本花火興業

    秋田県

花火は、夜空を彩る光でありながら、人の心をつなぐ“メッセンジャー”。
そこに込められた想いや祈りが、国や言葉を越えて届いていく。
そんな信念を胸に、一世紀を超えて火薬と向き合ってきたのが秋田県大仙市の北日本花火興業です。

奉納花火から始まった伝統を受け継ぎながら、
音楽と花火を融合させた創造花火の第一人者として歩んできた
「現代の名工(令和6年度)」 四代目 今野義和氏にお話を伺いました。

今野義和氏(中央)

ルーツ

始まりの奉納花火と、幼い日の記憶

Q……..北日本花火興業のはじまりは、どこにあるのでしょうか?

今野:
今から150年近くさかのぼります。
大仙市や仙北郡を中心に秋田県の県南地方では、各地域の神社の祭礼に花火を奉納する風習がありました。
それらを手掛けるのは、普段は農家で、祭りが近づくと花火作りを始める農民花火師たちです。
我々もルーツは地元の神社の祭礼にあります。
その頃は、お神輿の巡行に合わせ、家々の玄関先で花火を揚げて神様を迎えるという風習もありました。

その頃(明治32年(1899年))初代 今野米松が煙火の製造と販売の免許を取りました。
これが、北日本花火興業のはじまりです。

Q……..今野さんご自身の、花火との出会いを教えてください。

今野:
物心ついたときから花火とともにありました。
家のすぐ裏が工場で、そこからいつも火薬の匂いがしていました。
それが、私にとっては“日常の風景”でした。

「危ないから近づくな」と言われても、やっぱり気になるんですよね。
父が花火玉をつくっている様子を、少し離れたところからじっと見ていました。
火薬を扱う手の動きとか、現場の緊張した空気とか、
ああ、これは特別な仕事なんだなって、子どもながらに感じていました。

中学生の頃には親に連れられて現場にも行きました。
本当は子どもが入る場所じゃないのですが、こっそり入り込んで、現場の空気を感じていました。
高校生になると忙しい部活の合間をぬって、
堤防に行って、父に買ってもらったカメラで花火を撮ったりしていました。

そういう生活を送りながら、どこか心の中で、これが自分の道だろうと感じていました。

Q……..花火の道に進むことを意識し始めたきっかけはありましたか?

今野:
「花火師になる」と言ったのは、たしか高校三年生のときです。

きっかけになったのが、NHKの『新日本紀行』という番組の取材でした。
ちょうど「大曲の花火」を特集する回で、うちも少し取材を受けたんです。

その時「将来どうしたいのか」っていうテーマで作文を書いたんです。
番組のディレクターに強制的に書かされたようなものでしたけど(笑)、
文章にして書いてみると、自分の中で少しずつ気持ちがはっきりしてきました。

火薬のことをきちんと勉強できるところに行こうと思い、工業大学に進学することに決めました。

Q……..その決意は、ご家族にも大きな影響を与えたそうですね。

今野:
そうなんです。

その作文を、番組のディレクターがうちの親父に見せたらしいんです。
「息子さんは将来、花火の道に進みたいと書いています」と。
それを見た親父が、ようやく腹をくくったんだと思います。

それまでは、うちも農業と花火の兼業でした。
でも父はそのとき、「息子が後を継ぐなら、本業でやっていこう」と決意して、農業をやめて花火一本に切り替えたのです。
今思えば、あれがうちの転換点でしたね。

おそらく父にはずっと迷いがあったんでしょう。
私もはっきり「花火をやる」と言っていなかったので、どうするか決めかねていたと思います。
でもあの番組で全国放送されて、
「今野義和くんは音楽の世界を花火で描きたい」と紹介されたわけですから、
もう引き返せなくなりました(笑)。

技と仕事

音楽の世界を花火で描く

Q……..創造花火、そして音楽花火という新しい表現に、どんな思いを込めてこられたのでしょうか。

今野:
花火の世界には「創造花火」というカテゴリーがあります。
いまではすっかりおなじみになりましたが、
もともとは昭和39年、大曲全国花火競技大会の佐藤勲さん(当時の実行委員長)が考案したのが始まりです。
“花火は丸く咲くもの”という既成概念にとらわれず、もっと自由に表現していこうという発想でした。

私がその「創造花火」に音楽を合わせたのは、昭和59年の大曲全国花火競技大会のときです。
当時、音楽を花火に付けようとする人は誰もいませんでした。
音響設備は今みたいに整っていませんし、スピーカーの音も割れてしまうような環境でした。

それでも私は、録音テープを抱えて放送担当の地元の電器屋さんにお願いして、「この曲を流してもらえませんか」と頼みました。
放送の合図と同時にテープを回してもらって、そこから打ち上げるのです。

その翌年から、音楽を取り入れる花火業者が急激に増えていきました。

花火に音楽をつけるのではなくて、音楽の世界を花火で表現する。
どちらを主語にするかで全然違いますが、
私の中では“音楽が表現していることを花火で描く”という感覚です。

曲のテンポや情景を、どう花火で置き換えるか。
構成を考えながら、一発一発を積み重ねていきます。
音楽が静かになれば花火も柳のようにやわらかく、
盛り上がるところでは銀龍がぐっと昇っていく―――
その“呼吸”を合わせていくことが、私の音楽花火の基本です。

ただ、音楽と花火を並べても、それだけでは何も伝わりません。
大切なのは、どんな思いで作品に向き合うかということです。

難しいテーマでなくてもいい。
「子どもたちを喜ばせたい」「見た人の心が少しでも明るくなればいい」―――
そんな気持ちを込めることで、花火は“技”から“表現”へと変わっていきます。

花火は形や音だけでなく、つくり手の感情を映すものだと思っています。
作品に心がこもっていれば、それは必ず観客に届くものです。
それこそが、花火が芸術になる瞬間だと思います。

挑戦と誇り

花火に“物語”を吹き込む

Q……..花火の表現を広げるうえで、型物花火はどのように生まれたのでしょうか?

今野:
花火玉というのは、夜空を彩る役者みたいなものです。
美男美女のように凛とした花火もあれば、
ゆったりと夜空を舞う花火、
そして見る人を笑わせるピエロのような花火もある。
それぞれの玉にどんな“演技”をさせるか―――それを考えるのが花火師の仕事です。

昔は、丸く開く花火そのものを見せることが中心でした。
でもだんだんと、花火で「何を伝えるか」「どう見せたいか」という表現の時代になりました。
花火はただ打ち揚げるものではなく、そこに物語を描くものだと思っています。

Q……..印象的な作品の誕生には、どんな背景があったのでしょうか?

今野:
冬場は国内での打ち上げが少ないので、以前は花火玉を海外に輸出していました。
ある時、ディズニーを手がける花火会社から「ミッキーマウスの形をつくれないか」と依頼がありました。
でも当時はまだ型物花火が発展途上で、正確な形を出すのは難しかったので、いったんお断りしたのですが、
「夢と希望のキャラクターを夜空に描けたら、どんなに喜ばれるだろう」と、
ずっと心のどこかに残っていました。

その後、日本のテーマパークに行ったときに、“3つの輪”だけで表現されたマークを見た瞬間にひらめきました。
「あ、輪を3つ出せばいいんだ」と。
そこから輪をきれいに出すための試行錯誤が始まりました。
花火の星は火薬の粒ですから、ほんの少しでもズレると形が崩れてしまいます。
まるで砂の上に小石を並べるような作業を何度も繰り返して、ようやく形にできました。

そして“3つの輪”をテーマに挑戦したのが、
平成元年の大曲全国花火競技大会の創造花火「人気アニメフェスティバル」です。
ミッキーやドラネコなどを組み合わせた作品で、準優勝をいただきました。
そのあたりから「型物といえば北日本花火」と言っていただけるようになりました。

次の年には、“蚊取り線香”の渦巻きをヒントにして「紫陽花にカタツムリの歌」という作品をつくりました。
BGMは童謡の『でんでんむし』。
子どもたちが口ずさむような素朴な曲でしたが、その作品で優勝しました。
嬉しかったですね。

花火は、見た人が笑顔になってくれたらそれが一番です。
私はいつも「難しいテーマを語る花火」よりも、
子どもからお年寄りまで、誰が見ても楽しくて分かりやすい表現を大事にしています。
それが“みんなの花火”だと思うのです。

それからは、音楽の情景やご依頼に応じて、表現のバリエーションもどんどん広がっていきました。
型物を生かした笑いを誘う表現もあれば、クラシック音楽の情景を描いた幻想的な花火もあります。
時代や会場の雰囲気、見る人の層に合わせて、表現を変えていく。
その積み重ねが、いまの北日本花火のスタイルを形づくってきたのだと思います。

そして、こうした挑戦の積み重ねを評価していただき、
令和6年、花火業界で10人目となる「現代の名工(卓越した技能者)」として表彰されました。
花火師として身に余る光栄ですが、それ以上に、
「今まで目指してきた花火スタイルが間違っていなかった」と背中を押してもらえたような気がしました。

花火と未来

文化をつなぎ、変化に向き合う

Q……..海外での打ち上げや次の世代への思いなど、今後の花火についてどのように感じていますか?

今野:
花火は人と人とをつなぐメッセンジャーです。
花火を通して自分の思いや伝えたいものを表す。
皆さんとつながるために発信する道具だと思っています。

1987年に「大曲の花火」がベルリンで打ち上げられました。
私は大学を卒業して仕事に就いた翌年で、その一行に加わりました。
当時はまだ、ベルリンの壁で東西が分かれていた時代で、打ち揚げは西ドイツ側でした。

ドイツの人たちにとって、日本的な速射連発で上がっていく花火には馴染みがなかったと思います。
打ち揚げは空港のだだっ広い場所で、観客は1キロくらい離れていました。
歓声が聞こえるか聞こえないか、奥のほうでスピーカーだけが鳴っている感じでした。
電気点火なんて持っていっていませんから、点火はすべて手付けです。
「誰それ点火!」の号令で火をつける。緊張しますけれど、やりがいがありました。

無事終わってホテルに戻ると、
「ここが花火師の泊まっているホテルだ」と聞きつけて、現地の方が何人かメッセージを残していきました。
あの遠さの中でも届くものがあったのだと感じました。

打ち揚げ前の記者会見で
「地上には壁があるけれど空には壁がない。西の人も東の人も楽しんでください」と団長が話したのをその場で聞いていましたが、
その時はその言葉の意味を深く考えませんでした。

翌日、新聞に「空には壁がない」というタイトルの記事が出た時に、
これはすごいことだ、花火ってすごいぞと感じました。

2年後、ベルリンの壁は崩壊しました。
私は少なからず日本の花火が影響しただろうと思っています。

また、忘れられないのは、ある時いただいた、一通の手紙です。
「どうしてもお伝えしたくて…」と書かれた手紙でした。

その方は、つい最近、息子さんを亡くされたそうです。
まだ若く、うちの息子(専務 今野貴文 たかのり)と同い年くらいだったと書かれていました。
つい30分ほど前まで電話で話していたのに、突然の心臓発作で帰らぬ人になった、ということでした。

心の整理がつかず、何をしても落ち着かない日々の中で、ふと「花火大会に行ってみよう」と思われたそうです。
その会場で、偶然にも専務が打ち揚げた花火をご覧になり、
「どれも素晴らしい花火だったけれど、北日本花火の花火を見た瞬間、涙が止まらなかった」
「魂が浄化されるようで、悲しみが静かにほどけていく気がした」と手紙には書かれていました。


花火は、ただ華やかで楽しいものだと思われがちです。
でも、人の心に寄り添って、悲しみや痛みをやわらげることもできる。
それを教えてくれた手紙でした。

息子や私にとって、その手紙は、いまでも宝物です。

私はちょうど、打ち揚げ花火の成長期をともに歩んだ世代です。

手で直接火をつけていた時代から、リモート制御の時代へ。
丸い花だけだった花火が、音楽と一体になって物語を描くようになりました。
その変化を仲間花火師たちと歩んでこられたことは、本当に幸せだと思っています。

花火は伝統工芸であると同時に、未来を創造する仕事でもあります。
安全に打ち上げを終えるまで、緊張感は常に続きます。
けれどその先には、夜空を見上げて笑顔を見せてくれている人たちがいる。
その笑顔を思うと、どんなに大変でも頑張れます。

夜空を彩る一瞬の光が、人と人をつなぎ、時代を越えて受け継がれていく。
その循環の中で、自分らが手がけた花火も確かに生き続けている。
そう感じられることこそが、私にとっていちばんの誇りです。

いま一番難しいのは、世の中の変化にどう対応していくかということだと思います。
環境のこと、安全への意識、そして人々の価値観も日々変わってきました。

最近では、火を扱う経験の少ない世代も増えています。
「花火は何でできているの?」という問いに、すぐ答えられない人も多いかもしれません。
それだけ、花火が私たちの暮らしから少し離れた存在になっているのかもしれません。

ときには、花火の残り火や煙について話題になることもあります。
もちろん、安全に配慮することは私たち花火師の最も大切な責任です。
けれど同時に、花火は自然の中で人々が楽しむ“文化”でもあります。
ほんの少しだけ、花火を見上げる時間を“理解と寛容”の気持ちで包んでいただけたら嬉しいです。

花火は火薬というエネルギー物質を用いた、幸福産業であるべきと考えます。
それは、古来より平和の象徴であり、人を笑顔にし、地域を元気にするための文化でもあります。

日本の花火には、ほかの国にはない「間」と「粋」があります。
花火の“座り”や“盆の良さ”を語り合う―――
まるでワインを味わうように、一発一発を丁寧に鑑賞するという文化です。

賑やかな中にも瞬間瞬間の美しさがあり、観客はその一瞬に職人の心を感じ取ります。
それこそが日本の花火文化の魅力であり、世界に誇れる点だと思います。

変化の時代にあっても、人の心を結び、地域をつなぎ、人々の記憶に残る花火を打ち揚げ続けたい。
それが、私の願いです。

花火をつくる人に会いにいく
Copyrighted Article. Do not reproduce without permission.

株式会社 北日本花火興業

創 業:明治32年 (1899年)

代表者:代表取締役 今野義和 (4代目)

所在地:〒019-1701 秋田県大仙市神宮寺字下金葛320番

TEL:0187-72-2205

FAX:0187-72-2215