• 前編

    夏海真希(沖縄三線歌手)

なつみ まき

夏海 真希

1985年 沖縄県浦添市生まれ。
沖縄民謡教師免許。
ポップスから歌謡曲まで幅広く歌いこなす済んだ歌声は、聞く人を魅了。
2018年には定番の沖縄音楽を詰め込んだアルバム「おきなわん」、
2021年にはオリジナル曲を盛り込んだ「おきなわんたいむ」をリリース。
オリジナル曲「泡盛祝唄」はRBC放送Aランチの11月エンディングテーマ曲になる。
また、NHKFMのラジオ番組、ゴンチチの「世界の快適音楽セレクションで注目曲として紹介される。
現在 琉球村でのLiveの様子がYouTubeで好評で、全国各地、アジアでもLive活動中。
藤本真希 社労士事務所。

  @maki.okinawa.time
  @maki.okinawa.time
   @夏海真希natsumimaki

夏海真希さん【沖縄三線歌手】

母を笑顔にしたくて、必死に歌ってきた時間が、私の音楽の原点。 その歌声を沖縄三線に乗せて、 皆さんのもとへ届けていきたい。

【1】

◼️…子どもの頃、どんな環境で育ったのですか?

私の心の原風景には、沖縄で祖母が営んでいた『粟国ストア』の温かな光景があります。
浦添市で生まれ、祖母や親戚の大きな愛に囲まれて育ちました。
祖母は本当に心が綺麗で、いつもニコニコとお店に立ち、地域の方に愛されていました。

アツアツの島豆腐やアメリカのお菓子の匂い、夏休みにみんなを連れて行ってくれた『ホテルみゆき』の思い出……。
壁に貼ってあった『てぃんさぐぬ花』の教訓歌を眺めながら、大切な教えを自然と学んでいきました。

私の母は障害があり、言葉での会話が難しい時もありましたが、とにかく音楽と絵が大好き。
家ではいつも色んなジャンルの曲が流れていて、母とはカラオケやイラストを通じて心を通わせてきました。

母を笑顔にしたくて必死に歌ってきた時間が、私の音楽の原点です。
そして、そんな母を一生涯、献身的に支え続ける父の背中を見て、
私は『人を愛することの尊さ』を教えてもらいました。

◼️…どんなお子さんでしたか?

5歳頃から、周りが流行りの歌を歌う中で、
私は自然と『ハイサイおじさん』を歌うような「民謡声」の子どもでした。

父の仕事で兵庫へ移り住んだ頃、言葉や文化の違いに戸惑ってしまい、
学校では一言も話せないほど内気だったんです。

そんな私に自信をつけさせようと、父は劇団やバトン、歌の大会など、表現の場へたくさん連れ出して導いてくれました。

兵庫では団地に住み、その日暮らしのような生活でしたが、家族の絆はとても深かったです。

家ではホームシックになった母を支える父を助けたくて、私も幼い頃から料理をして手伝っていました。
当時はまだ沖縄のイメージが今ほど良くなかった時代でしたが、兵庫の友人とそのご家族が私を救ってくれました。
言葉を教えてくれたり、お風呂や夕飯を共にして沖縄の話を優しく聞いてくれたり……。
温かな家庭や友人、沖縄県人会の方々の存在が、私の大きな支えとなりました。

小5からバトンチア 父の仕事の関係で兵庫在住

また、父は再婚で、沖縄には2人の義理のお兄ちゃんがいました。
小さい頃はなかなか会えませんでしたが、
高校生の頃、彼らも出稼ぎで内地に出てきたのをきっかけに再会。
今では沖縄に帰って温かい家族を持っていますが、とても仲が良くて、沖縄で集まる時間が何より嬉しいです。

沖縄の異母兄弟(プロボクサーと俳優だった)

◼️…楽器にも触れましたか?

5歳ごろからヤマハ音楽教室でエレクトーン、ピアノ、声楽の習い事を、小学校卒業までしていました。
母の影響で聴いた歌謡曲や洋楽、ディスコソング、ZARDやゆずも好きでした。

中学からはギターの音色や、サイモン&ガーファンクルのような美しいハーモニーや民族楽器にも惹かれていきました。

母親が沖縄だけでなく幅広いジャンルの音楽が大好きで、
家ではずっと曲がかかっていて一緒にカラオケで歌い、父親は演歌を教える、そんな環境でした。

高校では「書くこと」が好きで新聞部を作り、
将来はコピーライターやカウンセラーになりたいな、と夢見ていました。

新聞部部長、全国新聞コンクール入賞

経済的に厳しい時期で、父からは就職を勧められていました。
けれど、仕事と看護で精一杯の父を見て「早く家を出て負担を減らしたい」と思い、
大きな図書館に通って論文の書き方を独学で調べて、
当時珍しかったAO枠で内緒で受験し、関西大学に入りました。

中卒の職人だった父は最初驚いていましたが、
大好きな野球の村山実さんが出た学校だと知ると、とても喜んでくれました。

大学時代は歯科助手とホテルのアルバイトを掛け持ちして、
まかないや先輩にご飯を食べさせてもらっていました。
遠回りもしましたが、そのすべての出会いが今の私の音楽を作っています。

◼️…大学ではどんなことを学んだのですか?

将来は言葉で表現するコピーライターや、人を癒すカウンセラーになりたいという夢があったので、心理学を専攻しました。
ゼミでは援助心理学の高木先生のもとで、人がお互いにどう支え合い、助け合って生きていくのかという「対人援助」を学んだことは、今の仕事に生きています。

落語研究会では、大阪弁を勉強しようかなという軽い動機で入ったので、よく発音を直されて皆から笑われていました。

何をしても沖縄のほんわかした雰囲気が出て、三味線でお囃子を弾いたり、お茶子をして舞台を手伝うことが多かったです。

意外にも3回生では部長でしたが、
私はどちらかというと舞台を運営したり作るほうが好きでした。

個性あふれる同期や先輩後輩と和気あいあい
切磋琢磨して遊んでもらっていて(笑)、今も可愛がっていただいて有難いです。

初舞台

落語のストーリーや登場人物の温かさは大好きで、とても勉強になりました。

卒業後、お客様からのリクエストで初めて沖縄の歌を歌ったとき、皆さんが心から喜んでくださって……。

その時ようやく「ありのままの自分でいいんだ」と肩の力が抜け、
三味線から転向して、もっと母や父が大好きな沖縄を歌っていこうと思い始めたんです。
本来の自分をそのまま出すようになり、本格的に沖縄三線を習い始めました。
最初は沖縄料理屋での投げ銭からのスタートでしたが、
ファンの方や周りの応援のおかげで、CDを出すまでになりました。