あおやぎ みどり
青柳 美どり
長野県安曇野市出身。
武蔵野美術大学 卒業。
学生時代、バックパッカーとしてアート一人旅にハマる。
卒業後はアートディレクター/グラフィックデザイナーとして企業に勤務。
2019年、株式会社アサを立ち上げ現在に至る。
藝術共育研究家、アート対話ファシリテーター、リベラルアーツマインドセット講師。
変人學会発起人、こども環境学会会員、美術共育実験室運営。

#078 小さい頃に大事にされた記憶は、人生のさまざまな局面で、人を内側から支え続ける。その環境をつくり続けたい。
◼️…株式会社アサという社名の由来を教えてください。
会社名は、祖母の名前から取りました。
祖母の名前は「アサ(朝)子」です。
祖母は、毎朝、山に向かって手を合わせる人でした。
朝日が昇るのを見ては、「ありがたいねえ」と言うのです。
朝日は、昨日と同じ太陽がより一日古くなったて上がってくるけれど、
私たちは新しい日が生まれる命のように感じる…それがありがたいんだ、と。
人との出会いも同じで、
いつも新しい朝として迎えなさい、という教えでした。
祖母は、戦中戦後を生きた人です。
*ひらがなを書くことが許されない時期があったそうで、ひらがな部分はカタカナで記していました。
自分の名前、朝子もしかり。
日本のアニミズムや禅の精神、言語化しきれない感性も大切に引き継ぎたい。
毎朝、お日さまがあがることを喜び、あらゆる出会いを慈しみ、まっさらな気持ちで朝を迎えるように日々をつくる。
それで、「であい・ひらき・つくる」という言葉とともに、祖母の名前をそのまんまもらって会社名にしました。
◼️…青柳さんの子ども時代について教えてください。
長野県、信州・安曇野(あずみの)で育ちました。
茅葺きの家に祖父母がいて、牛やヤギ、ニワトリがいる暮らしでした。
いろんな動物のいる暮らしはとっても豊かだったなと思います。
ただ、「家を継ぐ」という空気は、ずっと重く感じていました。
うちは本家で、姉と私しかいなかったので、「どっちが継ぐんだ」という話が、常にありました。
このしがらみから逃げたいという気持ちが、東京という進学先を私に選ばせたというのもあります。
◼️…どんなお子さんだったのですか?
ちょっと風変わり者な子どもったと思います。
女の子同士でつるむのが苦手で、ひとりでいるのが好きでした。
女の子グループの中で誰かが仲間外れになると、
その子と一緒にいることが多かった気がします。
今でも、
「いつメン(いつも一緒にいる仲の良い友達グループ)」や「ママ友グループ」には、ほとんど興味がありません。
友には恵まれていますが、いつもくっついて何かするという特定のグループはなくて、
サバサバとした気楽な関係を好む友人ばかりです。
◼️…進路選択は、どのように考えていましたか。
高校は、私立の進学クラスで特待生でした。
勉強が特別好きだったわけではありませんが、
学年の最終成績を落とすと学費が出なくなるので、
3学期のテストだけ必死に勉強して、三年間特待生を守り抜きました。
そういう意味では要領がいいというか、生きる悪知恵を使うことに躊躇がないタイプだと思います。
美大に行くと言ったときはその高校に前例がなく、職員会議開いてもらって対応を相談してもらった記憶あります。
最初は、親戚と母にも大反対されました。
「東京に出るようなことして地元を捨てても絶対に幸せになれない」と。
地元では、公立高校 → 国立大学(信州大学) → 公務員 が王道なんですよね。
でも、祖母と父が味方してくれました。
◼️…武蔵野美術大学では、どんな学生でしたか?
私が進んだのは、色彩心理や行動心理、消費心理などを通じての行動を、資本主義経済を軸に学ぶ視覚伝達デザイン学科でした。
受験に向けては、腱鞘炎になる程度にはほどデッサン練習をしました。
小学生の頃から、絵で賞を取ったりしていたので、
「自分は絵がうまい」と思いこんでいたのですが、大学に入ったら、私が一番下手でした。
才能に溢れ、かつその上に努力を積み上げている人ばかりで衝撃を受けました。
自分が井の中の蛙だと初めて気がついたのも良い学びでした。
学生時代は、一人旅にハマりました。
最初は、大学のプログラムで、38日間ヨーロッパの美術館を巡りました。
世界って、こんなに広いんだ。日本って、小さいと身をもって実感しました。
その後は、アルバイトしてお金をためてはバックパック背負って、
世界中のミュージアムを訪れる!と意気込んで、一人で各国を巡りました。
日本にも、いろんな国の美術展がやってきますが、
人混みが苦手な私は、行くだけで疲れてしまって、作品鑑賞どころではなくて・・・。
ところが、外国のミュージアムは、ゆったりとして広い。
作品が「あるべき場所にある」という感じがして、そにで本物に出会いたいと思いました。
例えば音楽も、CDで聴くのと、ホールに足を運んで聴くのとでは、経験が違います。
美術も、同じゴッホでも、日本で見るのと、アムステルダムで空気ごと体験するのとでは、まったく違う….そんな感じというと伝わるでしょうか。
◼️…卒業後は、どんなお仕事をしたのでしょうか。
デザイン会社に入り、
アートディレクター/グラフィックデザイナーとして働きました。
食品パッケージや広告の仕事にも、多く関わりました。
◼️…青柳さんが大切にしている「暮らしの考え方」について教えてください。
*本記事中で語られている祖母の時代背景や表記に関するエピソードについて 当時の日本全体に共通する制度や史実として確認できる資料は見つかっていません。
編集部としては ご自身が幼少期から受け継いできた「生き方の教え」としての記憶を尊重し そのまま掲載しています。