むらた ももこ
村田 桃子
北海道北斗市出身。
上京し、映像制作に20歳から携わる。
現在は北海道在住。
肩書きにとらわれず、さまざまな表現活動をしている。
@m_momo103
#065 常に世界を見ていたい/可能性は無限にあるし 世界中にある/いつでも未来を切り開いていける
◼️…現在はどのような活動をされていますか?
いま私は「これが本業です」と言えるような明確な肩書きをあえて持っていません。
FacebookなどのSNSでは「クリエイター」として登録していますが、
それも便宜的なものであって、実際にはもっと多様な活動をしています。
20歳の頃から映像制作を始めて、そこからいろいろなことに派生していきました。
たとえば、インタビュー記事の編集やイベントの企画、場づくり、
そして対話の場のファシリテーションなど、
そのときそのときに自分が「やってみたい」「必要だ」と感じたことを
柔軟に取り入れながら、活動のかたちを更新し続けています。
ひとつ共通しているのは「誰かの思いを丁寧にすくいあげて、かたちにする」というスタンスです。
それが映像であれ、文章であれ、空間のデザインであれ、
根っこにあるのは「人の内側にある声に耳を傾け、それを誰かに届ける」ということです。
だからこそ、表現の手段にはこだわっていません。
活動を重ねるなかで、自然とその都度ふさわしい形が見つかっていく——そんなふうに考えています。
また、現在は北海道を拠点に暮らしていて、
自然に囲まれた環境の中で、
都市部では感じにくい時間の流れや人との関係性を大切にしながら働いています。
この土地に根づいて活動することも、私にとってはとても意味のあることです。
北海道生活
◼️…どんな子ども時代を過ごしたのでしょうか?
とにかく東京に憧れを持っていた子どもでした。
中学の時にはすでに「東京に行きたい」と言っていました。
当時は、田舎の良さを理解できなかったのでしょうね。
何もない街だなと思っていました。
でも今、大人になって帰ってくると、
この自然豊かな環境がすごく贅沢な場所だったんだと思えるのですが、
当時は本当につまらないと思ってました。
行ってみたいし、食べてみたいし、気になったらやってみたいし、
とにかく好奇心がすごいあったけれど、田舎では解決しない。
その環境に対するモヤモヤした感情がありました。
テレビっ子だったので、
東京には何でもあると思って
自分もテレビ業界に入りたいと思っていました。
◼️…いざ上京する時のご家族の反応はいかがでしたか?
家族や親戚でそれまで上京した人がいなかったので、両親には心配されました。
ただ、言っても聞かない子だと多分わかっていたので、
諦め半分で「行ってらっしゃい」みたいな感じだったとは思いますね。
当時は、テレビ業界に入りたいという目標が明確にあったので、
映像の専門学校に行きました。
◼️…卒業後はすぐに映像の仕事を始められたのですか?
どうしても関わりたい番組があって、その番組を制作している会社に
いかに自分がその番組を愛しているかを訴えて(!)ご縁をいただきました。
誰にも負けない熱意がありました。
多種多様なヒストリーを持つゲストが
世界や日本国内のゆかりのある地を訪れる様子に密着して、
自身のルーツや人生観・仕事観について
本音を引き出していくドキュメンタリー番組でした。
どうしてもその番組に関わりたかったので、
与えられた仕事は150%の力でやりました。
念願の番組に配属になってからは「ザ・AD」です(笑)。
寝られない、帰れない、遊べない…。
でも めちゃめちゃ楽しかったです。
人生をやり直してもまた絶対同じ番組のADをやりたいって思えるぐらい
すっごく楽しかったんです。
◼️…なぜ、寝られない、帰られない、遊べない仕事だったのでしょう?
やはり作業量が圧倒的に多かったんです。
他の番組はADが複数いてチームで動いていたのですが、
この番組の場合は、一放送分につきADが一人だったんです。
企画の段階から納品まで一人で全部やらなきゃいけなかったんですね。
ゲスト本人のエピソードをうかがって
それを元に現地のコーディネーターと一緒にゆかりの場所を探します。
ロケ場所の準備も必要です。
日本を出発して現地で撮影して帰ってきて翻訳作業をし、
編集作業をし、
その映像を使った番組本編の収録をし、
編集して最終納品をするのですから
ものすごい作業量ですよね。
番組ロケ(スイス)
◼️…いろんな国に行ったのですね。印象的なことはどんなことですか?