おおつか なおみ
大塚 直美
【2】
◼️…子ども時代は、どんなお子さんだったのですか?
幼少期(3〜9歳)をイギリスとオランダで過ごしました。
最初の学校教育は英語で受け、帰国したとき私は9歳、弟は7歳でした。
帰国子女の友人とも話して気づいたのですが、
9歳前後で帰ると英語の感覚はある程度残る一方、
7歳くらいで帰国すると英語をほとんど忘れてしまうケースが多いようです。
うちも同じで、弟はほとんど英語を覚えていないのに対して、
私は「話す・聞く」の感覚がまだ残っていました。

左)誕生日 右)ハロウィーン
日本語については、オランダにいた頃は土曜日の午前中だけ日本人学校に通い、ドリルをやる程度。
帰国後にいちばん苦労したのは、やはり漢字でした。
ノートのマスにきれいに収められず、文字はいつもはみ出してしまう。
止めやはね、はらいもうまくいかず、漢字がどうしても「絵」のように見えてしまって、どう書いたらよいのか分からない。
当時は「漢字なんて大嫌い」と思っていました。
そんな私が初めて自信を持てたのは、小学5年生のとき。
学年で行われた漢字テストで一番を取ることができたんです。
そのテストは漢字を使った熟語も書けば加点される仕組みで、とにかく数を覚えれば点数が伸びる。
努力すれば結果が出ることが面白くて、気づけば夢中で取り組んでいました。
帰国直後、担任の先生に「友達に対して、はっきり言いすぎるから気をつけなさい」と言われて以来、
授業中もこわくて発言を控えていた私にとって、
「日本ではテストを頑張れば認めてもらえるんだ」と気づけたのは大きな安心感でした。
でもやっぱり、中学生になって英語の授業で当てられたときは、
わざとカタカナ英語で発言していましたね。
これは帰国子女あるあるでよく聞く話ですけど。(笑)

オランダ日本人学校仲良し
そういう生活の中で「海外と関わる仕事をしたい」という気持ちを持ったのは自然なことだったと思います。
就職活動では自然と外資系企業に目が向いていて、
チェース・マンハッタン銀行(現在のJPモルガン・チェース銀行)に入行しました。

入行同期のみんなと
当初は銀行員としてキャリアをスタートしましたが、
その後、行内の*Job Posting制度を利用して秘書職にキャリアチェンジしたんです。
銀行のコーポレートディビジョンでグループセクレタリーを務め、7年間勤めました。
ジュニアセクレタリーからわずか2年でシニアセクレタリーにステップアップできたのは、
自分の中で「やっぱり人をサポートすることが好きなんだ」と実感できたからだと思います。
*Job Posting制度=社内公募制度。「転職の時のように」応募しキャリア形成していく仕組み
秘書という仕事は、スケジュールを管理するだけではなく、人と人をつなぐ潤滑油になること。
その役割にやりがいを感じていました。
さらに、より上位の役割であるエグゼクティブセクレタリーを目指したいと思い、
株式会社コスモ・ピーアールの社長秘書に転職しました。
新しい環境では責任の範囲が広がり、一つひとつの判断に重みがある。
そこで「自分はもっと挑戦できる」という気持ちが強くなりました。

Chase時代 上司Steve
◼️…結婚・出産のタイミングでは、働き方をどう考えましたか?
結婚を機に一度退職しました。
その後は年子で2人の子どもを授かり、子育て中心の生活になりました。
母親として子どもの成長に寄り添いたいと思いつつ、「仕事を続けたい」という気持ちも常にありました。
けれど当時は、子どものお迎え時間に合わせて働ける秘書職はなかなかありませんでした。
セクレタリーとして再就職を希望しましたが難しかったんですね。
そこで方向転換を考えるようになったんです。
SPIテスト(仕事への適性や能力を測る総合適性検査)を受けてみたところ、
結果が営業やコンサルティングに適性があると出て、思い切ってキャリアチェンジを決意しました。
2004年にコンサルティング・エムアンドエスのオフィス事業部で、セールス兼コーディネーターの職に就きました。
当時の私にとって大事だったのは“時間の自由”でした。
子どものお迎えや家庭のリズムを崩さずに働けることが第一条件。
秘書職ではそれが難しかったのですが、セールス(営業)職だとそのあたりは自由になると分かり、
最初は自信は全くありませんでしたが、その時のベストとして選択しました。
そうやって自分のキャリアを柔軟に変えることで、
子育てと仕事をどうにか両立させることができたのだと思います。
◼️…キャリアカウンセラーの資格も取得されていますね。
2008年にキャリアカウンセラー(JCDA認定CDA)資格を取得しました。
人材開発やキャリア支援に関心を持ち始めた頃で、
自分自身が子育てと仕事の間で悩んできたからこそ、人のキャリア形成を支えることに意義を感じたんです。
翌2009年にはインテック・ジャパン(現:リンクグローバルソリューション)に入社し、人材紹介部門を担当しました。
同時にキャリア開発関連の研修コーディネーターも兼任し、「人の成長を支えること」が私の大事な軸になっていきました。
◼️…異文化コミュニケーション研修との出会いは、どんなきっかけだったのですか?
インテック・ジャパンに入社したのがきっかけとなりました。
この会社は私の親戚が創業させたので、以前から「英語ができるなら手伝って」と声はかけてもらっていたのですが、
実際に入社したのはリーマンショックで人材ビジネスが難しくなったタイミングでした。
そこで初めて会社の主力商品である「異文化コミュニケーション研修」と出会って、衝撃を受けたのです。
「これは自分の原点とつながっている」と強く感じ、帰国子女として経験したこと、
日本で戸惑ったことがすべて腑に落ちた瞬間でした。
そして、2012年、会社の再編によって新たにリンクアンドモチベーションのグループに加わることになり、
それをきっかけに異文化コミュニケーション研修にもメインで関わるようになりました。
そこから海外赴任者向けやグローバル人材育成のプログラムに深く携わるようになり、
2017年には*QCアドバイザーとして、研修プログラムの品質管理を担当しました。
*QCアドバイザー=Quality Control(品質管理)アドバイザー
現場での実効性を検証し、改善提案を行うだけでなく、
講師の育成プログラムも新たに構築するなど、研修の質を高める役割を果たしました。
研修はただ「やって終わり」ではなく、
参加者がどう変わったかを測り、改善につなげることが大切なんです。
その裏方の仕事に強いやりがいを感じました。
◼️…そして独立を決意されたのですね。
2018年12月に株式会社ComPLUSを設立しました。
背景には「もっと自由に、この”学び”を広げたい」という思いがありました。
異文化コミュニケーションを知ることで、人はもっと楽に多様な人と一緒に働けるし、自分らしくも生きられる。
その可能性を信じて、企業研修にとどまらず、学校や地域コミュニティにも届けたいと思いました。
子育ても一段落して、ようやく自分の人生を自分で舵取りできる時期になったのも大きかったですね。
◼️…そうした経験を経て、いま大事にしていることはどんなことですか?
私の軸は「違いを恐れず、違いを楽しむ」ということです。
人はそれぞれ違っていて当たり前で、違いがあるからこそ新しい価値が生まれます。
かつての私は「自分が悪いのではないか」と戸惑うことが多かったんです。
日本に帰国して漢字が書けない、空気が読めない、と悩んだとき、「自分が劣っているのでは」と感じてしまっていました。
でも異文化コミュニケーションの視点を知ってから、「違いは悪いことではない」「文化が違えば前提も違う」と思えるようになった。
それが大きな転換点でした。
だからこそ、この“気づき”を一人でも多くの人に広げたいと思っています。
仕事の面では、異文化コミュニケーションをもっと広く届けたい。
これまで企業向けの研修を中心にやってきましたが、本来これは企業だけのものではありません。
これからの日本は、労働人口の変化に伴い、日本にいながらさまざまな文化を持つ人たちと共に暮らし、働いていく社会になっていきます。
なので、学校でも、地域のコミュニティでも、子どもから大人まで誰にでも必要な学びです。
特に若い世代に伝えていきたいんです。
自分自身、帰国して戸惑ったときに「文化の違い」という視点を知っていれば、もっと自分を責めずに済んだのに…と思います。
同じように戸惑っている子どもたちに、「それは文化の違いだから大丈夫」と伝えられる大人でありたい。
そのために、研修や講座を学校や地域にまで広げたいと考えています。
違いを受け入れることで、もっと豊かに、もっと柔軟に生きられる人が増えるはずです。
日本人は従来、「我慢する」ことを美徳としてきました。
でも、これからは日本人が本来持っている良さ――誠実さや調和を大切にする姿勢、相手を思いやる心――を、我慢ではなく自信をもって出していくことが大事だと思います。
グローバル化が進む中で、日本はますます外と交わらざるを得ません。
そのとき「日本的なやり方が通じない」と嘆くのではなく、「違うからこそ学び合える」と思える人を増やしたい。
「異文化コミュニケーション」という言葉が特別なものではなく、「誰もが自然に持っている視点」として広まること。――それが、私のこれからのビジョンです。