かきざわ としえ
柿澤 寿枝
【2】
◼️…イタリアから帰国後、どのように生活を立て直していったのですか?
帰国して、雑誌のライターをやったりしました。
一度、結婚したのですが、非常に辛い離婚も経験しました。
実家には帰らず、当時アルバイトでお世話になっていた女社長さんのところに居候させてもらい、三ヶ月ぐらい引きこもりました。
ある時、「そろそろ働いたら?」と背中を押していただき
ネットで検索して見つけたアルマーニの募集に応募しました。
派遣のつもりで行ったところ、正社員での採用でした。
36歳で初めて正社員になりました。
アルマーニでは、銀座本店で当時扱っていたチョコレートの販売と仕入れなど一連の業務を担いました。
そこで、私は自分はサラリーマンには向いていないと感じ半年ほどで辞めてしまいました。
その間も歌を歌ってはいました。
ただ、歌だけではやはり生活が難しいため、
他の派遣の仕事を探していたところ、
ドルチェ&ガッバーナ(Dolce & Gabbana)の派遣の仕事が見つかりました。
最初はホールセールの部署に週三の派遣で入り、事務作業をしていました。
イタリア語ができたこともあり、
派遣を始めて三ヶ月ほどで大変ありがたいことに社長秘書のポジションをいただくことができました。
日本法人の社長秘書として、イタリアに行かせてもらうこともありました。
またイタリアから要人が来日した際には通訳として全国のお店を回りました。
ドルチェ&ガッバーナ(Dolce & Gabbana)はイタリアの重要な文化のひとつで、
ファッションという文化を通じてイタリアに関われたのはとても楽しく、また非常に貴重な経験でした。

Dolce&Gabbana で働いていたときに ミラノ出張でファッションショーを見ることができた
有給休暇や、お金をいただきながら仕事を教えてももらえる、という
音楽業界では考えられないシステムに感謝する日々でもありました。
社長秘書として何人かの上司に仕えることになりましたが、
人に仕えることに向いておらず(笑)、途中で営業アシスタントに異動になりました。
新しい環境では人間関係にも悩み、心身のバランスを崩してしまった時期もありました。
波瀾万丈だった20代、30代については写真も全て整理してしまって、今ではあまり細かく覚えていません。
40歳で妊娠をきっかけに退職しました。
◼️…出産のあと、心身ともに大変な時期もあったそうですね。
41歳で出産しましたが、マタニティーブルーや産後うつに苦しみました。
区の相談窓口に泣きながら電話をかける日々が続きました。
45歳ごろ、自分を立て直したい一心で、
オンラインのマインド講座やビジネス講座、
スピリチュアル講座など、さまざまな学びにのめり込んでいました。
最終的には、カリスマ的な講師による高額コンサルティングにも参加し、数百万円を費やしました。
けれども次第に、終わりのない課金の仕組みに疑問を感じるようになりました。
そのうちに「私はいったい何者だったのか?」と、
立ち止まって自分を見つめ直すようになったのです。
そうして、他者の生き方を模倣するのではなく、
自分の内なる声に耳を傾けて生きていこうと思うようになりました。
そこから、もう一度「音楽に戻ろう」と思えたんです。

約10年のブランクを破り歌の活動を本格的に再開し、その年にヴェネツィア国際映画祭のサイドイベントが行われたヴェネツィアの宮殿で君が代を独唱
◼️…やはり音楽に回帰するのですね?
映画『国宝』を見ても感じるのですが、
歌舞伎にしてもオペラにしても、
芸は普通の物差しでは測れない「狂気の世界」だと思うんです。
芸大に入ったとき、勉強は得意ではないけれど、
ひとたび歌えば圧倒的に人を惹きつける人がいて、
枠を軽々と越えていく姿に驚かされました。
私はどうしても枠の中に収まってしまうところがあって、
「狂気の世界」に振り切れない自分の凡人さに絶望しました。
一方で、今は社会全体に「余白」が少なくなっていて、終わりなき芸の時間感覚や
答えのない営みを受け止める余裕が薄れていると感じます。
私は「文化は余白の極み」とよく言うのですが、
人は芸に触れることで余白が生まれ心に緩みや遊びが生まれるのではないかと思います。
文化の担い手が育つには、心に余白を持った遊び心ある成熟した支援者の存在が必要不可欠です。
私自身は、挫折や遠回りを経て、
「他人のやり方をなぞるのではなく、自分の内側の声に戻る」ことが一番だと気づきました。
そこから、もう一度音楽に向き合おう、と決めました。

サグラダファミリアの地下聖堂。ガウディのお墓の前でコンサートに出演
◼️…財団を立ち上げる決意をした後、ご自身で変わったことはありますか?
社団を立ち上げたいという思いに辿り着けたことで、
「日本の伝統芸能の家に生まれた自分が、なぜクラシック音楽をやるのか」という長年の問いに、
初めて手応えある答えを見つけることができました。
合唱という入口を用意することで、
より多くの方に伝統文化を身近に感じていただける——
その実感を、サントリー小ホールでの第1回公演で得られたのは非常に大きかったです。
立ち上げの過程では、「初めから大きくしない方がいい」という助言も少なくありませんでした。
確かに不安や恐れはありましたが、
視点を「やるか・やらないか」から「どうやったら実現できるか」へ切り替え、
小さな安全圏に留まらずに走りながらトライアンドエラーを重ねて前へ進みました。
結果として、同じく大きな志を掲げる方々との出会いが増え、
そのような方々から高い視座を保ち続けることも学び、
孤独や不安と付き合いながらも一歩ずつ進む感覚が身についていっていると思います。
日々、「今ここ」に意識を戻すこと、そして支えてくださる方々への感謝が行動の軸になりました。
家族も「大変そうでも楽しそうだね」と受け止めてくれており、
自分で自分に許可を出して動けるようになった——それがいちばんの変化です。

社団設立記念コンサートにご出演くださった音楽家の方々と、合唱有志の皆さま
◼️…今後の展望を教えてください。
来年9月に、会場を第一生命ホールへ広げて第2回公演を予定しています。
一般参加の合唱に加えて、海外で活躍する日本人オペラ歌手をソリストとして、
N響・読響で演奏される超一流音楽家の方々をオーケストラとして招き、
共に高みを目指してひとつの舞台を作り上げます。
社団の活動の柱は「挑戦・学び・応援」。
超一流音楽家と共に舞台に挑む「とんでもない」体験を共有し、
定期的な文化サロンで無知を知に変える喜びを育み、
実力派の若手が世界に飛び立つための応援を行う仕組みを整えていきます。
合唱はクラシック音楽への入口ですが、
将来的には邦楽や工芸など広く日本の伝統文化とも共鳴し合える企画を増やし、
交流や国際発信も進めたいと考えています。
合唱に挑戦すること自体が支援となり、伝統文化を通して心の豊かさが循環し、
文化に触れる人・支える人が着実に増えていく——
その先に、豊かな「余白」により真に思いやりのある社会づくりへ貢献できればと思っています。
プライベートでは、家族との時間も大切にしながら、
常に自己の成長を目指し、コンフォートゾーンを抜ける挑戦を続けていきます。


