• 前編

うさみ なおみ

宇佐美 直美

岩手県生まれ。
小学生の時に、母の実家がある秋田へ移住。
高校卒業後、首都圏の企業に情報管理者として就職。
帰郷後、会社員生活を経て脱サラ。九州での泊まり込み修行を経て、パン職人として独立。
2004年「天然酵母と焼きたてパンのお店 むぎの音」を開業。
パンづくりの軸は「健康×美味。毎日食べても飽きのこないパン」。
素材にこだわり、全粒粉×天然酵母、あずきパンなど独自のレシピを展開している。
人生のところどころで卓球との縁があり2022全国大会年代別優勝。
現在は大きな膝のけがからリハビリ中、復帰を目指している。

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宇佐美直美さん【パン職人】

#073 差し伸べられる手に支えられ 重ねた歩み/日常に寄り添い 安心して食べられる味を届けたい

【1】

◼️…この道に進むきっかけを教えてください。

きっかけははっきりしているわけじゃないんです。

でも思い返すと、実家が商売をしていたことが大きいかもしれません。
実家は「奥岩商店」という老舗で、父が三代目でした。
奥寺(旧姓)の「奥」に、曽祖父の岩太郎の「岩」で「奥岩商店」です。

村には一軒か二軒しか商店がなくて、地域の暮らしを支える店でした。
日用品や食品を扱ういわゆる商店でありながら、給食のパンもつくっていたんです。
商店として村の人たちの生活を支えつつ、工場を持って給食用のパンを製造していました。

朝早くから鮮魚の仕入れに出て夜9時まで働いて、それからレジを締めてやっと夜ご飯を食べていた。
その光景が子どものころの私にとっては当たり前だったんです。

今考えると、時代遅れも甚だしく大変な日常でしたが、
最終的にパン屋さんに導かれお店を始めることになるなんて不思議です。

◼️…子どもの頃はどのように過ごされたのですか?

母が大病を患い、母と妹が秋田に移住しました。
お店に母が立てなくなってしまい、母の実家がある秋田で暮らすことになったんです。

父は会社の仕事と商店の手伝い、さらに秋田との往復で忙しく、常にあちこちを飛び回っていました。
私は一人岩手に残され(奥岩商店のボス)祖母に育てられました。


と言っても、いとこ家族も一緒に商店を手伝っていたので、家はいつも大所帯でした。
近くには自動車整備工場を営むいとこ家族も暮らしていて、みんなで集まる食卓はとても賑やかです。
ご飯はお手伝いさんが作ってくれて、子どもたちは全員お膳を並べ、床に座って食べるのが日常でした。

◼️…学校生活について教えてください。

岩手の実家から 母と妹が住む秋田に来たのは、小学3年生の時です。
入退院を繰り返す母や妹との秋田の生活が始まりました。


私の家は昔ながらの旧家で、女子は「上級学校に進む必要はない」という考え方が残っていました。
進学校ではなく、実業校に進みました。
当時は家の方針が強く、その中で与えられた環境に順応していきました。

後に社会人として働きながら大学の通信課程に入りましたが、レポートの提出がとにかく多くて大変でした。
課題を仕上げるには膨大な調べものが必要で、一人では抱えきれない部分も多かったです。
資料を探してもらったり、まとめ方のアドバイスをもらったり、周りの人にたくさん助けてもらいました。

◼️…学生時代に熱中していたことはありますか?

卓球とそろばんです。
「頭の回転が良くなるから」と勧められて始め、両方とも短期間でかなり習得しました。

そろばんは一級を取得し、卓球は2022年に全国大会年代別優勝を果たしました。

卓球専門誌記事より

◼️…今も卓球は続けているのですか?

はい。

ただ、膝の大けがをしてしまい、現在はリハビリ中です。
卓球は私にとって大切なものなので、また復帰することを目標にしています。

パンづくりと同じで、積み重ねが力になる世界です。
焦らずに、一歩ずつ戻っていきたいと思っています。

◼️…首都圏の企業勤務から秋田へ帰ってきた経緯を教えてください。

勤務先の紹介で、秋田へ異動してきて結婚するまで勤めました。

パンの修行に出たのは、その後です。

◼️…修行先はどのように選んだのですか?

偶然が重なって、導かれるように出会いました。
それはもう、不思議なくらいのめぐり合わせでした。

九州の友人と話していて「こういう店があるよ」と教えてもらっていたところで、
本屋さんでたまたま手に取った雑誌に、そのパン屋さんが載っていて「教えるよ」と書いてあったんです。

実際にその友人にお願いして、パンを送ってもらいました。
届いたパンを食べて、「ここだ」と思いました。
雑誌との出会いと、友人のひと押し――そのご縁が重なって、迷いなく修行に行くことを決めました。

◼️…そのパンの、どこに惹かれたのですか?

まず、あずきパンの珍しさに惹かれました。

あんぱんも世の中にあるし、あずきがゴロゴロと入っているパンもありますが、あずきパンは違いました。
あずきが生地にしっかりと練り込まれていて、自然な甘みだけのほのかな甘さのやさしい味なんです。
噛むほどに小豆と麦の香りが一緒に立ちのぼってきて、主張しすぎないのに記憶に残る。
毎日食べても飽きのこない、まさに“ご飯みたいなパン”だと感じました。

◼️…その味は、今も再現できる人が限られているのですか?

そう思います。

そこで修行した人だけが出せる味で、他では見たことがありません。
レシピを見ただけでは作れないと思います。
(他で再現できないのは)配合だけの話ではなくて、
生地への落とし込み方や発酵のかけ方、
温度や水分の持たせ方まで含めた「仕事の積み重ね」が味をつくっているからだと思います。

だから、雑誌で知って、友人に送ってもらって、実際に食べて――「ここで学びたい」と心が決まったんです。

◼️…修行はどのように行われたのですか?

九州での泊まり込みでした。
修行仲間と同じ部屋で寝起きして、朝早くから仕込みが始まり、夜遅くまで翌日の準備が続く。
半年間、とにかくパンと向き合う毎日でした。

初日からパン屋さんの一連の流れをやっていきます。
当然最初は何もできないし、作業は遅いし、失敗ばかりで落ち込むこともありました。
でも毎日繰り返すうちに少しずつ感覚がつかめるようになり、速度も上がりました。

あるとき師匠から「魔法の手だね」と言われたんです。
それは、生地を扱うときのわずかな塩梅を感じ取れる手だということでした。
ベトベトの生地をベトベトにせずに扱えたり、配合の微妙なバランスを手でわかってしまう。
そういうことができたので、そう呼んでもらえました。

もしかしたら、それは実家の影響もあったのかもしれません。
遊びの延長のように自然にパン生地に触れ、手で確かめていたことが、知らないうちに感覚を育ててくれていたのかもしれません。

師匠からも「手は最高の感覚器官。目で見るよりも手で触ればわかる」と言われて、
とにかく何でも手で触って確かめることを叩き込まれました。
ゴミや髪の毛一本さえ、異物は手ならすぐにわかる。
そのくらい手は正直で繊細なんだと言われ続けました。

半年間の修行は厳しく、最後はプレッシャーで首が動かなくなるほどストレスも抱えましたが、
「魔法の手」と呼ばれたことは、今の私のパンづくりの支えになっています。