くりはら ひろみ
栗原 宏美
東京都台東区出身。バンコク(タイ)在住。
和洋女子短期大学卒業。
2002年にタイに移住し、2005年に起業し現在に至る。
百貨店やオンラインで日本のこだわり商品をタイ人に向けて販売している。
学生時代はバスケットボール部。
現在のルーティンはランニング、ウォーキング。
タイ人向け寝具 https://kenkoshop.co.th/
日本企業向けテスト販売 https://japanplus.net/
【1】
◼️…なぜ タイだったのでしょうか?
フィーリングです(笑)
もともとタイ料理が好きだったのですが、
改めて タイの国や人が(自分と)合うような気がしたんです。
◼️…どういう経緯(いきさつ)ですか?
短大を卒業した後、何をやっても しっくり来ないという20代を過ごしました。
そんな中、1年ぐらいフィリピンに行ったんです。
仕事をしたわけではなかったのですが、
行ったり来たりしながらトータルで半年ぐらい滞在していたと思います。
知り合いが何人かいたので、そこに寄せてもらいました。
そうこうしている内に
友人からタイで製造関連の会社経営している人(男性)を紹介してもらいました。
その方はタイと日本を行き来している人でした。
彼が日本に来る時には、あっちこっちの現場についてまわることになりました。
ある時「栗原さんは何をやりたいの?」と聞かれたんです。
「社長になりたいんです」って思わず言ったんですが、
今思えば、恥ずかしげもなく言ったものだと思います。
その時「なんでやらないの? (そういうのって)やるか、やらないかじゃないの?」って言われたんです。
そんな簡単な話じゃないでしょうと思ったのを覚えています。
そんなある日、(別の)製造関連の社長と出会うんです。
檜(ひのき)枕をタイで売らないかと提案があったので
日本から送られてきた枕を、タイで 私が販売することになったのです。
これが(タイでの仕事の)始まりでした。
◼️…タイで仕事をし始めていかがでしたか?
すごく仕事が楽しかったんです。
当時(百貨店の)伊勢丹があって、そこで実演販売をしたんです。
平台に檜(ひのき)を山盛りにして、お客様に合わせて量り売りをしました。
タイ語もほぼ知らない状態でしたが、楽しかったですね。
社長は日本にいて、
その時はあくまでも自分はアルバイトだったのに、
自分の裁量で売り場を管理できる面白さを感じていました。
こういう世界もあるんだなと思いました。
◼️…アルバイトでも自由と責任がすでにあったのですね。
今思えばそうですね。
個人事業主のような感覚だったと思います。
◼️…日本で仕事をするのとは違いましたか?
日本では、常に他人の目線を気にしながら、
評価されながら仕事する感じだったように思います。
自意識過剰すぎたのかもしれませんが、
常に誰かの目にとまるように、
誰かに褒められるように、
誰かに高い評価をされるように、働いていたと思います。
◼️…檜枕の売上はいかがでしたか?
当時(20年前)は檜枕は高すぎるから無理だと言われている時期でしたが、
思ったよりも売れたっていう感じでした。
そうすると、百貨店側もまた来てくださいって言ってくださって、
私のアルバイトも3回に延びました。
10日間ほど短期滞在してアルバイトして帰る…これを3回やりました。
でも、3回目が終わった時に、社長が撤退するって言ったんです。
お近くのスーパーでは(日本円で)400円以下の枕が売られていたのですが、
私が扱っていたのは10,000円の枕なんです。
当時のタイでは健康意識も低かったので長くは続かなかったということですね。
加えて、送料や関税を考慮しないで日本と同じ値段で設定してしまったので、
売れば売るほど赤字になっちゃったんですね。
そこで、社長が辞めるならば、私が引き継いでやっていくということになりました。
◼️…赤字が見えていたのに、引き継ごうと思ったのは何故ですか?
選択肢がなかったんです。
日本に帰ったら型にはまったところで仕事をすることになると思ったら
それはすごく嫌だなと感じました。
自分にも自信が持てなかったので、
これをやるしかないって思って会社を立ち上げました。
よく会社を立ち上げたというと、「すごいね」と言われるのですが、
勢いもあったし、先のことを深く考えなかったからやれたと思います。
◼️…日本で会社を作ることとはまた違う苦労もあったのではないでしょうか?
苦労はしたような気がしますが、
そもそも日本で会社を作ったことがないので比較ができないです。
経営のことも全く分からない状態でした。
経理ももちろん分かりませんから
インボイスの本当の意味が分かったのは、1年以上経ってからです(笑)
◼️…ビジネスはどのように展開していったのですか?
日本は撤退したんだけど、私が会社を作ってやることになりましたと百貨店に話したら
すごくびっくりされて 現地の日本人スタッフが全員集まってきて、
「考え直した方がいいよ」って言われました。
自分たちの立場もあったのでしょうね。
でも私が「やるんです、やるしかないんです」というので
向こうもしょうがなく受け入れる感じでした。
ただ(以前の)アルバイトの時は、エスカレータ上ってすぐの売り場だったのに、
常設になった途端に目立たない場所に売り場を与えられました。
1日に10人も人が歩かないような場所です。
当時はそういうことすら考えられなくて お店を開けてよかった!ぐらいの感じでした。
”無知”はいろんなことを救ってくれたなと思います(笑)
知らぬが仏ともいいますものね。
まず、始める時に適正価格にしました。
安すぎることがわかっていたので、10,000円だった価格を15,000円にしたんです。
だからますます売れない(汗)
それでもゼロということはなくて、1ヶ月に40,000円ぐらいは売れる。
私が、毎日お店に立っていてその売り上げです。
普通なら1、2ヶ月で危機的状況だと思ったでしょうけれど、
私の場合は、半年ぐらい経っていよいよお金がなくなってきたぞと思い始めました。
ダメだどうしよう!と思った時に、売り場に立つのをやめる決断をしました。
◼️…(売り場に立つのやめるとは)どういうことですか?
タイ人のスタッフを雇いました。
そして私は その人件費以上のアルバイトをすることにしたんです。
少しずつことばも勉強して、ガイドや、通訳のほか、
日本人でタイでビジネスをしたい方のお手伝いをしました。
3年も経つと、百貨店でも管理職のタイ人が増えていました。
売り場のフロアマネージャーもタイ人になっていて、
寝具商材の拡大などやったらいいじゃん!と背中を押してくれました。
実はその頃、製造業の社長(女性)と意気投合して、
彼女の会社の寝具商材を扱うことができるっていうので
一気に10数種類、商品が増やせることになったんです。
そこから、お客様が増えていきました。
これが第一ステップだったと思います。