もりや くみこ

森谷 久美子

秋田市出身。
上智大学短期大学部英語科卒業。
カナダトロントへ留学し、トロント大学経済学部を卒業後、翻訳者として活動。
18年間のカナダ生活を経て2009年帰国。
2009~2015 翻訳会社でコーディネーターや品質管理責任者として勤務。
2015~現在 フリーランス翻訳者。
2020~2022 国際教養大学専門職大学院 修士課程で学ぶ。
経済学士(Bachelor of Arts)・修士(Master of Arts)。

【1】

◼️…カナダ公認翻訳者とはどんな資格ですか?

カナダの国家資格です。

カナダはフランス語と英語が公用語で、商品のパッケージも全て2カ国語で書かれています。
フランス語と英語ができれば翻訳者として安定した仕事がありますが、
日本語はどちらかといえば希少言語なので、それほど多くはありません。

それでも多民族国家であるカナダでは翻訳に関する国家機関があり、
翻訳に対する考え方やシステムが一般に浸透している印象を受けました。

翻訳を依頼する際に、この国家機関のサイトを見て連絡してくれる方も多いです。

国家政策として移民を多く受け入れているカナダなので、
移民申請のための必要書類(戸籍謄本など)の翻訳の依頼も多いのですが、
このような書類は公認翻訳者による認証印付きの翻訳(certified translation)でなければと認められません。

公認翻訳者には、そういう意味で高い「信用」もあります。

トロント郊外(ハロウィーンの季節を象徴する大好きな風景)

◼️…試験内容はどんなものですか? 

記述試験です。

当時は辞書の持ち込み可で、
英和・和英の大きな辞書を持ち込んで、目の前の文章を訳して書く試験でした。
採点するのは、すでに公認翻訳者になっている人です。

◼️…留学先は、なぜ”カナダ”だったのでしょうか?

英語圏に行きたいと思ったらアメリカに行く人が多いと思いますが、
私が留学しようと思った1991年は、湾岸戦争がはじまり、
アメリカでは暴力犯罪率が上がり続け、非常に治安が悪くなっていました。

それで銃が禁止になっているカナダに行くことにしました。

実際、私がカナダに留学した翌年、
日本人の高校生の男の子がハロウィンパーティに行く途中、
不審者に間違えられて銃殺されたという事件*がありました。

*日本人留学生射殺事件 1992年

カナダならば、バンクーバーに行く日本人が多いのですが、
そういう環境下では私は英語を話さないだろうと思って、トロント(カナダ東部)に行きました。
そうしたら、日本人は(その学校で)私以外誰もいませんでした。

◼️…その環境はどうでしたか? 

よかったです。

最初は英語もできませんし、
カルチャーショックもあって、心細くなることもありましたが、
ホストファミリーには、とっても良くしてもらいました。

(ホームステイ先が)ジャマイカ人のお宅で、豆ご飯やジャークチキンが美味しいし、
R&Bのレコードがたくさんあるお家だったんです。
それを全部聞かせてもらいましたし、カセットテープに録音させてもらいました。

ただ、英語学習の面から言うと、
ホストファミリーは日中、みんな仕事や学校で留守でしたし、
英語を使う人(英語を母国語とする人)があまり周りにいなかったので、
結局、テレビを見て英語を覚えるような感じでした(笑)。

トロントは移民が多いところで、
最初に行った語学学校では、みんなが片言の英語で会話をしていました。

◼️…自分が英語を使えるようになった手応えを感じたのはどのぐらい経ってからですか? 

テレビから聞こえてくることが自然に解ると感じたのは3年経ったあたりです。

間違ってもいいからとにかく英語を使おうとすれば、どんどん覚えていくと思いますけれど、
私の場合は、間違うのが恥ずかしいという気持ちが邪魔していたんです。
それでも3年で何とかわかるようになりました。

以来、合計18年間カナダで生活しました。

トロント郊外(現地のファーマーズマーケットでアップルパイやアップルサイダーを買いました)

◼️…英語に興味を持ったのはいつ頃ですか?

小学生の頃です。

映画を見て、英語の音に魅力を感じたんです。
『グリース(原題:Grease)』の
ジョントラボルタじゃない方の彼*が大好きでした。

*ジェフ・コナウェイ

(今はダメだと思いますけれど)映画館にカメラを持ち込んで写真を撮ったりしました。
それぐらい大好きでした。
小学生っていろんなことをしますよね(笑)
あの情熱って何なのでしょうか?
あれがあれば、何でもできる気もします。

映画『がんばれ!ベアーズ(原題:The Bad News Bears)』では、
女の子(テータム・オニール)が野球のピッチャーをやるんですね。
アメリカって女子がピッチャーやるんだ!すごい!って思って、”アメリカ”にものすごく興味を持ちました。

雑誌の「ロードショー」もよく読みました。

また、カセットテープで英語の歌を聞いて、
意味もわからないのに、必死で耳で覚えて歌詞カードを見ながら歌っていました。
当時覚えた歌はいまだに空で歌えます。
学校で勉強する前に覚えたものって忘れないですね。

本当に好きで夢中になったのが”英語”だったいうことでしょうね。

父は社会の教師、母は音楽の教師でした。

家には世界の国の本がシリーズで揃えられていてそれを片っ端から読んでいました。

英語から始まって、外に出ることにものすごく興味があったんです。
世界を見たい、いつか行こうと思っていました。

短大の時、時代はバブルでしたから、周りは、海外旅行に行くんですけれど、
私は、ちゃんと現地に住みたい、住んでちゃんと(英語で)会話をしたい、
そういう生活をしたいという気持ちを強く持っていました。

音楽については、クラシック音楽を聴いていると寝ちゃうので、母とは違う音楽を楽しむタイプです。

FMラジオでジャズをよく聞いていました。
エラ・フィッツジェラルド、スティービーワンダー。
アース・ウィンド・アンド・ファイアーも大好きでした。

今、ゴスペルのグループに入って歌っています。

◼️…教師は目指さなかったのですか?

教えるというよりは英語を使って何かをしたかった。
自分でお金を稼ぎたかったんです。

じゃあ何をやるんだろう?
英語は好きだけど、英語を使って何をするんだろう?
それが短大を出た当初の課題でした。

短大卒で、特別なスキルもない。
外資系銀行の秘書をしていると
(当時はバブルなので)ものすごい給料をもらっている人たちが周りにたくさんいるわけです。

迷いながら生活している中で、
留学する人たちも増えてきた時代でもあったので、
一年間、語学留学をしようと決めて、やっと海外に行くことになるのです。

アメリカ人の知人にその話(自分の生き方)をしたら
あ、それはCalling(コーリング)って言うんだよって教えてくれました。
電話のCallです。
自分が呼ばれている場所、自分の生まれてきた理由ってことなのでしょうね。
面白い言い方だと思いました。

(自分の)Callingは何か。

そう思ったら、一年の語学留学で帰らずに、
もうちょっと勉強しようと思って、大学に行きました。

その時、何を思ったのか、経済学部を選んじゃったんですね(笑)。
金融を学ぶ人が数学ができないとお話にならないのですが、
考えてみれば数学が嫌いだったし、
「翻訳を仕事にしている今」を思えば、もっと言語学とか英語に関する科目を選べばよかったと思います。

本当にやりたいことは何なのか、まだ自分のことを、全然わかっていなかったんですね。

宿題がたくさんあるのに、英語力が低いので、
教科書を3回ぐらい読んでやっと意味がわかる程度でした。

何をするにも時間がかかるんです。

電車の中でもずっと辞書を引きながら教科書を読んでいました。
大変な大学生活でした。

ワシントンD.C. リンカーン記念堂にて。(ここに来た時に英語の学びが1段階終わったと思った。ここから新たな学びが始まった)

のちに、学ぶことになる地元の国際教養大学 大学院では全課程英語です。
その時には、教科書を1度読んだだけで内容が頭に入るので
自分の英語力の上達を実感しました。